シンガポール・インドネシア視察 1996.10.6〜10.12

1.  国会が解散して小選挙区制になっての衆議院の選挙戦がはじまろうとしているとき、商工経済新聞社主催のシンガポール・インドネシアの実情視察に出発した。インドネシアの国民車問題がWTOで取り上げられた時でもあった。
 高度成長期のころから日本の企業は韓国、台湾、中国をはじめ東南アジアの国々に生産拠点を移転してきたが、ここに来て日本産業界はASEAN諸国の激しい追い上げと、欧米先進国との板ばさみに遭遇しているようだ。
 日本は国が小さいからか、攻撃するのはたいへん得意な民族だが、守備や撤退は不得手なような気がする。攻めの営業は花形だが、守りの営業、後方での支援部隊はたいへん重要な仕事であるのに左遷のように思ってしまうのは、私たちの気質なのでしょう。
業界紙「管材新聞」に掲載(96.10.23-97.1.22)12回 そもそも、日本だけの税金や規制を設けるのは、決して悪いことではないと思う。日本民族は、守備や撤退がヘタクソならば、WTOがどう言おうが国連がどう言おうが、その規制は撤廃してはならない。一旦、規制をやめると、外国製品がドッドッドッと脈動水のごとく押し寄せてくるにちがいない。事実、今回のインドネシアの国民車宣言も、世界から見ればWTOの言い分は通るはずだ、しかしインドネシアの立場では「インドネシアの国民車を作りたいのは、このインドネシアなんだよ。余所の国のことまで構わないでほしい。内政干渉も甚だしいではありませんか」と反論をしたいところだ。「ほんまのところ、マレーシアはんも国民車「プロトン」を作りはったし、インドネシアも国民車が欲しいねん。しばらくここ7〜8年協力してくれまへんか?」と。

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 定刻16時25分に関西空港を離陸したNH111便は、剣山を右手に見て、綿のようなじゅうたんの上を快適に飛ぶ。飛行は穏やかだ。機長のアナウンスが入る。「只今宮崎の上空。シンガポールには現地時間21時40分に到着する予定。途中気流の関係で揺れるかもしれませんが、ほぼ快適な空の旅を満喫できるでしょう。」
 以前の中国経済視察の時からの親しさからか、中部支局の舟橋さんに無理を言って、大阪組は関西空港から出発することを許してもらった。ボーイング767の機内はこじんまりとして、スクリーンも小さい。なによりも全日空便は日本語が通じるのでホッとする。
 夕日がだいだいの帯を作って美しい。時計を1時間遅らせてシンガポール時間に合わせた。夜の戸張が容赦なく、オレンジの帯を細く、細くしていく。太陽と雲と空が作った自然に思わず見とれている。ウィンド・シャッターを降ろすと、機内では映画が始まるところだった。
 最近、上映されたスパイ・アクションものであった。チャンネルのよって日本語と英語が選択できたが、眺めている程度になってしまって、途中で眠ってしまった。
 国際化、ボータレスと言われて、私たちは海外に出ることは、簡単になった。海外からも人も物もどんどん入ってくる。それを単純に国際化と喜んでいいものか?文化、伝統、しきたりはどうなっていくのか?
 私たち日本人は「わが日本」のことはよく分からない。マルコポーロは、日本のことを「黄金の国ジパング」と西洋に紹介した。「神の国」と言われ、天皇と称するエンペラーが2000年以上に亘り一系の世襲により続いている。お正月になれば、お餅を食べて、新年を家族共に迎えられたことを感謝し喜ぶ。今までに植民地になった歴史はないが、大陸より渡ってきた異民族によって支配されていた形跡は残る。主食は米を食べて、アジア一番の近代工業先進国とされている・・・。
 しかしながら、90年代に入ってから飲み屋街等の歓楽産業や競馬パチンコなどギャンブル業界の賑わいは極まるものがあるが、「もの作り」に対しての活気はなくなってきているように思う。かつての経済大国に浮かれたボーとした国民になったように思えてならない。
 9時すぎからスクリーンでは、シンガポール・チャンギ国際空港での入国の手順や、空港内の設備、ショッピングの案内、ダウンタウンへの交通アクセスなどを説明していた。ポツポツと灯りが見えてきた。いよいよシンガポールだ。
 入国手続きを済ませて出口を出ても、旅行者相手に寄ってくる「ゴロツキ」や「タクシー、タクシー」「ホテルありますよ」という声は聞かれない。日本と同じ左側通行なので違和感は全くない。タクシーに乗ってシャングリ・ラ・ホテルへ急いだ。名古屋からの皆さんは、すでにシンガポール入りをしているはずだ。

2.  次の朝、1階にあるバイキング・レストランで朝食をとる。中、洋、和の混合メニューだ。水道の水も飲めるので、生野菜も豊富に並んでいる。卵のサービスをやっている。目玉焼かスクランブルかオムレツか、卵1個か2個か、具は入れるのか入れないのかを言えば、作ってくれる。それなりに、パーソナリティを出して自分好みの食事をした。
 商経の舟橋さんからツアーの本隊の方々にご紹介されて、合流完了。大阪からの参加は一瀬さん(活黹m瀬社長)と私の2人だ。さぁー、バスに乗り込んで視察第1日目が始まった。
 シンガポールは、たいへん美しい街だ。至るところに緑があり別名「ガーデンシティー」とも呼ばれている。1963年に制定された環境公衆衛生法によりゴミのポイ捨てに対する措置は厳しく、罰金は1000Sドル(約8万円)となっている。会社でも空港でも喫煙コーナーを設け、至るところごみ箱がある。
 交通渋滞がないのは、道路が整備されていることもあるが、自動車の販売価格にも原因がある。日本の5、6倍はする。すこぶる高いのだ。カローラ級で7〜800万、ベンツだと2000万以上というから、びっくりする。車の増加抑制政策により輸入関税(45%)と新車登録税(150%)ががかかっているのだ。政府も税金をとるのが非常にうまい。「シンガポール株式会社」とでもいうべきか。
 たとえば、ガソリンの価格がマレーシアのほうが極端に安いので、ガソリンを入れるためにわざわざ対岸のジョホールへ出国してガソリンを補給して帰るという車が増え、あとが絶えなかった。そこで政府は、タンクに4分の3未満のガソリン残量だと出国できない条例を出したほどだ。商売がうまいというか、勝手すぎるというか、シンガポールにお金を落とすように仕組まれている。
 1942年2月から日本軍に占領されている3年6カ月間は「昭南島」と改称されたこともあったが、57年8月マラヤ連邦はイギリスから独立を達成した。が、シンガポールはイギリスの支配下に残された。61年5月、マラヤ連邦のラーマン首相の「マレーシア」の結成を呼びかけに応じて、シンガポール州となり加盟した。ところがマレー人とマレーシア人の亀裂が生じて、ついにシンガポール共和国として、65年8月9日にマレーシアから独立することとなった。同年10月にはイギリス連邦の一員となっている。  面積は約641平方q、人口は282万人、人口の77.6%が中国系、14.2%がマレー系、7.1%がインド系、他1.1%、そして約2万人程度の外国人で構成されている異人種の都市国家である。

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OKAMOTOシンガポールの前で(右から4人目が私)  シンガポールの北端のウッドランズにあるOKAMOTOシンガポールを訪問した。工業団地の中にある立派な工場であった。
 早速、2階の会議室にとおされた。シンガポールの大統領夫妻の写真が飾ってある。常務の田守さん、工場長の荒井さん、そしてASEAN地区支店長の伊藤さんの3氏が迎えてくださった。名刺交換をして、OKAMOTOの概況を説明していただいた。
 主に中型の平面研削盤、成形研削盤などを製造している機械メーカーで、従業員311名、うち日本人は6名。月産で約90台のマシンを製造する。シンガポールに進出してきて今年で22年目になる。材料の鋳物FC300はグループのOKAMOTOタイより購入、他の部品、購入品等は日本製のものを使用している。
 岡本工作機械グループの生産拠点は、安中工場(群馬)がメインで大型の機械。シンガポールが中型、タイが鋳物とローカル向けの小型の機械。設計は日本主導型で行なっている。
 シンガポールの労働市場は非常に悪い環境で・・と田守常務の説明は続く。なにせ高々300万の人口しかいないので当然不足してくる。月に安い所で1200Sドル、高い所で3200Sドルで、管理職やワーカーなど職種別の組合があって国の総生産の成長率によって給料のベースアップが決まるシステムになっている。この事業所ではワーカーの定着率は良いほうで、創業当時から勤めている者もいる。実に日本的な雰囲気といえる。
 オフィスから工場まで冷房が完備されている、心地よい環境だ。ISO9002を認証取得した工場で、看板方式もうまく取り入れている。ラインも効率よく配置整備されていて、班長クラスはブルーのユニフォームですぐに識別できる。
 もう一度、会議室に戻ってきて、シンガポールでの暮らしぶりや様々な規制のことなど親しくお話しをしたが、時間がきたので失礼することにした。


3. OKAMOTOを後にして、バスはダウンタウンに戻って行く。高速道路は空いていて車の音も軽やかだ。バスの横を通り過ぎる車が1000万以上と思うと恐ろしくなるし、政府の政策が理路整然としていて、あらゆる面でやりすぎなところを感じさせる。主導権を握っている中国系の人たちはいいだろうが、マレー系やインド系の人たちはストレスがたまってしまうだろうと思う。もう少し曖昧なところがあってもいいのではないかと思う。そこが、マレーシアと異なるところだ。
 前に座っていらっしゃる鈴木さん(潟c潟^部長)が月曜日の日本経済新聞を手にして連載小説「失楽園」を読んでいた。ここシンガポールでも発行されているのだ。久木と凛子が昨日軽井沢の別荘で心中を決行したまでは日本で読んだが、その後どうなったかは、気になっていたところだが、ここシンガポールでこんなに早く拝読できるとは、感激してしまう。

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タンガロイ精密の前で 昼食を済ませた後、タンガロイ精密をたずねた。雨が降ってきていたが、明らかにインド系と分かる守衛の方が外へ出てきて誘導してくれる。ティア社長とナンバー2の高橋さんが迎えてくださり、2階オフィス奥の会議室に通された。名刺交換のあと、高橋さんがOHPで親会社の東芝タンガロイのことや、ここシンガポールの工場の概要を説明してくださった。
 タンガロイというのは、1929年東芝の前身の芝浦製作所が開発したブランド名で超硬合金の代名詞になっている。主に超硬合金で作られた耐摩耗品工具、カッティング・ツールやプリント基盤の孔明け工具や土木鉱山工具を製作している。コンピュータの小型化に伴いプリント基盤も小さくなってきていて、ドリル径は0.5oから0.3oと小径になりつつある。月産、日本では50万本、中国と台湾で40万本を製作していて、業界トップである。
 東芝タンガロイ本社は川崎、工場はいわき、名古屋、大阪そして韮崎の四工場。海外拠点は、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、シンガポール、韓国、台湾、中国、オーストラリア。
 ここシンガポール、タンガロイ精密は設立は8年前、従業員は53名、うち日本人は2名。金型用の超硬パーツ、金型、半導体の成形モールドパーツ、モールドを製作している。販売経路は主にタンガロイ・シンガポール社か代理店を通じて販売している。
 ここも空調設備は整っている。午前中に訪問したOKAMOTOの研削盤がたくさん設置されていた。メンテナンスの面で非常に便利なんでしょう。現場は1日二交替制で動かしていて朝7時半から午後3時までと、2時半から夜11時までとなっている。喫煙コーナーは、建物の外に追いやられていた。
 工場を見せていただいた後、高橋さん流のシンガポール立地の是非について説明をしていただいたり、生活談などをお聞きした。
 タンガロイ精密の正面玄関で記念撮影をして、次の訪問先、ブラザー工業へ向かった。

 ブラザー工業はこの4月にこのシンガポールへ進出してきた企業で、主にASEAN諸国の営業と、技術指導やメンテナンスを行なう。より近いところでユーザーさんにサービスをしようという目的で出された。ここは、そもそもウェアハウスの団地で、部品供給のできるテクニカル・センターとなっている。
 もともとはミシン専業であったが、精密自動タッピングマシンやCNCタッピングセンター、超音波機器などを製造している。シンガポールでは、ASEAN地区の日系の二輪、四輪の製造メーカーをはじめ代理店を通じて販売をしている。
ブラザー工業でインドネシアのユーザーに技術指導をする日本人スタッフ  日本人のスタッフは3名しかいない。アジア統括責任者の湊さん、営業担当の小笠原さんが応対してくださった。もう1人の方は、表のオフィスでインドネシアのユーザーに熱心に技術指導をされていた。
 日本から出張した場合と、シンガポールから出向いた場合では、お客さんの反応が異なってきた。日本からだと「日本の情勢はどうですか?」という会話から入ったのが、こちらからだと「生活はどうですか?」に変わってきた。お客さまとの距離が近くなったことを肌で感ずるし、かえって日本やASEAN諸国の情報が取り易い環境にある。携帯電話は、ASEAN諸国でなら使用できるもので、電話の普及していない地域へ行ったときは、非常に便利だそうだ。

 

4  シンガポールでの企業訪問の予定は終了した。ホテルに戻ってゆっくりしたいところだが、そうはさせてくれないのが、海外旅行のツアーだ。現地の添乗員にとっては都合がよくない。だが、ここまであからさまにやってこられると、こちらも少々面白くない。
 オーチャード通りから少し入った外国人専門のみやげもの屋の前でバスは止まった。今、夕方の5時半、7時まで自由行動。一旦、店に入ったが、1時間半もあるので、一瀬さんと2人でオーチャード通りを下って行くことにした。シンガポールで一番にぎわう目抜き通りだけあって、仕事帰りのサラリーマンやOL、観光客でいっぱいだ。スーパーマーケットは、抵抗なく入って行ける。臭いも気にならない。お寿司のパックや、回転焼、お惣菜まで売っている。
シンガポールの地下鉄(MRT)のホームで  通りに面しているショッピング・プラザに入った。家電、バッグ、カバン、宝石、カメラ・・・。2階にあるみやげもの屋に入って、家族へのお土産を買った。よく日本人が来るらしく日本語が達者で、微笑ましい。夫婦でやっている小さな店で、よくまけてくれた。  みやげもの屋で時間を費やしてしまったので、ひと駅だけだが地下鉄(MRT大量高速輸送)に乗って帰ることにした。自動販売機で切符を買い、ホームへ。シンガポールは、公用語がマレー語、中国語、英語、タミール語の4つある。だから至るところの看板には4カ国語で表示されている。実にその点は徹底されている。地下鉄の表示もそうだ。オーチャード駅まで60Sセント(約48円)を要した。
 明日の朝はジャカルタへ発つので、晩ごはんは、ホテルの中か、ホテル近くのレストランの方が事足りるし都合がいいと思うが、バスはイースト・コースト・パークウェイを進んで、チャンギ空港の方へと向かって行く。側道に入り、UDMCシーフード・センターというところで止まった。
 食器やテーブル、店のつくりは庶民的であったが、中華料理の味はまぁーまぁー、何よりも新鮮であった。蟹のチリソースは美味しく、ワイルドに戴いた。

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 ホテルに帰って、パジャマに着替えて、一息つく。一番ゆっくりするときだ。缶ビールを飲みながら、今日の訪問先で感じたこと、思ったことをパソコンに入力する。一瀬さんがバスに入っている間に、明日の荷物を整えておいた。
 シンガポールの通信、電気、水道、ガス、交通輸送などのインフラストラクチャーの整備は優れている。公共交通機関にはMRT(地下鉄)、バス、タクシーがある。商業地域やオフィス街、官庁街の中心部には時間帯により乗り入れ規制を行ない、乗用車の増加抑制もあり交通渋滞、交通マヒは避けられている。だから、時間が計れ経済活動もスムースに運ぶ。電力、上下水道、ガスも十分に完備されている。
 また、シンガポール政府は「グリーン・プラン」を策定して、環境保全や緑化規制を計画的に進められている。たとえば建物の建築申請には、敷地の四方2メートルの幅で植樹スペースを設けるとか、敷地内に現存する樹木は、撤去する際は当局の許可が必要とかが義務づけられている。
ホテルの部屋から外を写す  ここシンガポールは電話料金は安い。またホテルの部屋の受話器にはコンピュータ通信用の端子がついていて、日本へ電話したり、ノートパソコンからFAXを送ったりしたが、消費税(3%)を入れて10Sドル(800円)もかからなかった。

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 シンガポールの朝は早い。朝7時から向かいのビルの建設工事の音がする。赤道直下の街だから1年を通じて日の出、日の入りがほぼ一定だ。最長日と最短日の差は9分間しかない。日の出はおよそ午前7時、日の入りは午後7時となっている。
 今日は、インドネシアのジャカルタに出発する。出国税を払って、出国ゲートを通過する。これでシンガポール・ドルは全くなくなった。
 チャンギ国際空港の免税店は非常に大きなショッピング街だ。無人シャトルで結ばれているターミナル1と2があって、両方とも同じくらいの規模だ。酒、タバコ、香水はもちろんのこと、時計電化製品、民芸品、衣服、パソコンのソフトまで売っている。空港の設備はいい、品物は豊富で垢抜けがしている。東南アジアと西南アジア、オセアニアの交通の要所という「シンガポール株式会社」はしたたかだ。

5 午前10時30分、SQ154便搭乗開始、11時15分離陸。時間を1時間遅らせて西部インドネシア標準時に合わせた。機内では、食事が運ばれてきていた。
 私はインドネシアは初めてである。しかしながら個人的にはたいへん親しみを感ずる国である。というのは、叔父が商社マンとしてジャカルタに、永い間住んでいて、合弁会社の社長まで勤めた。叔父の手紙にはスカルノの切手の貼ってあったし、帰国したときには、インドネシアでの「おもしろい話」「のんびりした話」「当たり前のことが当たり前でない話」をよく聞かせてもらった覚えがある。
 インドネシアという名称は、ギリシャ語で東インドを意味する「インドス」と、群島を意味する「ネソス」からなっており、文字通り訳すと「東インド諸島」となる。立憲共和国で1945年8月17日に独立している。5つの大きな島と1万7000もの島々からなる群島国家で、東西約5000q、南北約1700qのも及ぶ。面積は日本の約5.1倍。人口は、約1億9000万人(世界で4番目)。首都はジャカルタで人口約900万人。全人口の約60%がジャワ島に住み、その約一割がジャカルタに住むという、ジャワ島のジャカルタは超過密地帯となっている。ジャワ島の人口密度は814人。
 シンガポール航空のスチュワーデスはスタイルが非常よいし頭の回転もよい。動きにくそうな民族衣装を着てのサービスをこなしているし、私たちお客の国籍を瞬時に判断して、その言葉で話してくれる。
 そうこう頭を巡らせているうちに、B747は着陸体勢に入った。窓からは、埃っぽい熱帯の風景が見える。12時35分着陸。
 ジャカルタ・スカルノ・ハッタ国際空港は、植え込みに囲まれ瑠璃瓦の建物でとても美しく、優雅で綺麗な空港だ。長い長い動く歩道が続く。入国手続きでは多少長い列ができていた。シンガポールとちがって、職員がタバコを悠然と吸っている。沈黙の中、スタンプの音が響く。
 バッゲージクレイムでは、出てくるのが少々遅いように思う。こういうところは、シンガポールのほうがスピーディでスマートだ。と思っていたら、バッグを持って出口に出るところぐらいから騒がしくなって、案の定、そこにはいつもの「アジア」があった。「ポーター」が旅行者相手に寄ってくる。「タクシー、タクシー」「日本語ガイド」「ホテルありますよ」という声も耳に入る。まともに応じていると腹が立ってくる。国民性か、文化、歴史、地理的な、わずかの差でこうも違うのかと、びっくりする。
 ジャカルタでの添乗員はエディと名乗り、非常にまじめな印象を受けた。インドネシアやジャカルタの説明をする。人口、風土、宗教、・・・。日本語で一生懸命話している姿からは、困ったことを頼んでも、なんとかお客さんの要望に応えようというひたむきさを感ずることができた。
 予定では、自動車組み立て工場視察となっていたが、実際はエントリーされていなかった。ガイドのエディは、日本でコンタクトをとってきているものと理解していたし、指示されたのは「数社を案内する」だけであった。商経の舟橋さんを中心にエディをまじえて相談をした結果、中国人系の街にある問屋街を見て、南ジャカルタの更紗工場へ行くことになった。
車種を瞬時に判断して、ベンツを丁重に案内をする私設ポリス?  ジャカルタの街は、車で溢れている。道路は建設中のところが目に入る。渋滞は日常茶飯事、割り込みの技術は相当なものだ。道の脇に立っている私設ポリスの誘導で、さらに車をうまく前進することができる。ただし、金額によってそのポリスの動きに差が出てくる。渋滞で交通がマヒすることはない。少なくとも、止まったままではない。進んではいる。所々、ロータリーや一方通行があって、信号をなくす工夫はされているが、車と人の数の増加に道路の整備、拡張は追っつかないのだ。
 ジャカルタ市街の北部にあるチャイナタウンの一角に問屋街はあった。グロドック街と呼ばれていて、ショッピング・センターのすぐ近くに鉄道のコタ駅がある。TOTOの看板が目に入る。イタリア製の混合水栓やシャワーヘッドもある。錠前や把手を置いている店が多い。しかも、その錠前が宝石店のようなウィンドゥに飾られ、店員がわんさと居る。空き巣狙いの泥棒が多いのかと治安の悪さを連想する。道は汚く、でこぼこ。下水口には食べ物の汚物がこびりついている。公衆トイレはあるが、ドブのガスと独特の臭いと熱気で言い表せない異臭がする。配管材料、建材を扱う店もあった。
チャイナタウンの一角にあるグロドック街の配管金物店  「こんなところに日本人が来て」という眼差しで見られながら問屋街を一周してバスへ戻ってきた。活気はあるわー、車は多いわー、人も居るはわ、暑いわーという光景でした。

6  日本企業の海外進出の最も重要なメリットは何か?それは国境間のサヤと時代間のサヤである。国境間のサヤは賃金や物価の格差で得るメリットで、非常に分かりやすい。
 時代間のサヤとは、ある程度の期間を経て稼ぐ利益のことだ。たとえば土地や株の値上がりのことだが、その政府が提供する工業団地に入植してしまうと、撤退するときには容易に土地の処分ができない羽目に陥ってしまう。まさに韓国や台湾の工業団地に進出した企業にとっては、頭の痛いことだ。まずは、長期的視野をしっかり持って、苦労してでも単独立地を選択して短絡的に海外進出を考えないことが大切だ。
 しかしながら、3年前に中国を訪問したときに大連の貿易商社の方が言っていたことを思い出す。「中国は今までに西欧の列強や日本やロシアの統治下にあったこともありますが、結局、それらの国はこの中国から出ていくのです。香港もしかり、文化的な遺産や産業の技術を置き去りにして・・」まさにその中国人の言ったことは当たっている。
 そもそも日本という民族は、日本列島から外へ出ようとすると大きな打撃を被ってしまうのではないかと思う。第二次世界大戦でも、大東亜の開放と平和を目的としていても、やっぱり日本の本土へ戻ってしまうのかもしれない。

 ジャカルタのシャングリ・ラ・ホテルにチェックインをして、すぐに友人の大西君に電話をした。今晩会おうと言う。食事の後、ホテルで、ということになった。彼はこの6月よりジャカルタへ来ている。大阪でプレス加工と金型を製作している鉄工所の社長であるが、日本は弟に任せて、社員1人と伴にインドネシアと日本の合弁会社を起こしにやってきた。実にパワフルで行動力のある人物だ。
 インドネシア最初のディナーは「オアシス」という名の、外国人向のたいへん有名な高級インドネシア・レストランであった。建物は1928年にオランダ人の富豪の私邸として建てられたもの。
 インドネシア民謡、ジャズなどの生バンドが入り、チップを貰いながらバンドがテーブルを回る。私たちのテーブルでは「長崎は今日も雨だった」「瀬戸の花嫁」など日本の曲を所々メジャーコードの展開で歌う。陽気な民族と察する。お隣りさんではオーストラリ民謡の「ワルツィング・マティルダ」を歌っていた。
レストラン「オアシス」にて。一瀬氏と私。  メインディッシュは12人のウエイトレスが各々一品ずつ料理を運んでくれる。インドネシア料理のフルコース内容は、それほどではないが。12人のインドネシア女性がぐるっと私たちを囲んだときは圧巻だった。演出や場の雰囲気に負けてしまう。しかしながら料理代金よりも酒代のほうが割り高と思うが、それはイスラムの国だからか。
 ホテルに戻ってしばらくしてから、大西君が部屋まで訪ねてきた。ビールを飲みながら世間話やこちらに来た経緯などを聞いていたが、どこかへ飲みに行くことになった。同室の一瀬さんと商経の舟橋さん、そして落合さん(兼工業鰹務)を誘った。
 大西君は現在、単身でインドネシアに来ているが、この運転手の月給は12,500円だと言う。車は南ジャカルタの方へ進んで行く。メイドも居て考えようによっては、快適だと言う。
 日本人がよく来るカラオケ・クラブへ案内された。一見、日本のラウンジの感じだ。インドネシア女性がめいめいについてくれるが、英語の得意な子、日本語を少しだけの子、インドネシア語だけの子とか様々だ。隣の舟橋さんは、絵を描いたりして筆談をしている。意気投合すれば、個人的に誘えばいいシステムになっているそうだ。
大西君とホテルのロビーにて  大西君は久しぶりに気兼ねせずに大阪弁をしゃべって日本人を満喫していたように見受けられた。時間がなく、ゆっくりと話はできなかったが、近々の再会を約束して別れた。
 同業の○○社がうまく進出できたから、それじゃ我が社も、という安易な考え方ではうまく行かないと思う。人脈のめぐり合わせや現地に出向いた人間の微妙な差で、成果は変わってくる。日本でやり手で有能な人間が、海外でも同様にできるとは限らない。問題は、海外へ出向く人物のガッツ、柔軟性、生き方、物の考え方だ。
 なにしろ、海外では日本的な経営は通用しないし、進出の仕方に決まった形、マニュアルがないからだ。また、同業者が進出した後からノコノコついて行くのも、考えものでどうかと思う。つまるところ、内外の状況を見て判断することが大切だが、大西君のような、決断のロマンとガッツ、意気込みが最も重要なポイントだ。

 

7  次の朝、地下一階のバイキングで食事をした。シンガポールと同系のホテルなので、レイアウトがよく似ている。視察旅行も4日目で体が旅行に慣れてきた感じだ。錆付いていた英語も、発音、文法もむちゃくちゃではあるがスムースに出てくるようになった。それは、昨夜カラオケを歌って舌が回るようになったのかもしれない。今日の予定は、ジャカルタ国際貿易展示場に行って、昼からは政府関係の省庁局を訪問することになっている。

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 相も変わらずジャカルタの道路は混んでいる。このメインストリートでは交通渋滞を防ぐため、3人以上乗っていない乗用車は通さないルールになっている。その影響で道路には立ちん坊がいて、一緒に乗って規制された道路を走る。メインストリートを走り終えれば、某の報酬をもらって降りる。こんなビジネスが発生する。なにかしら、納得がいく単純なビジネスで、思わず笑ってしまう。なんとインドネシアの人は、善人なのか、人柄のよさを感じる。
 チャイナタウンの近くまで来て、バスは右折れ、旧空港の方へ向かった。むっー、インドネシアのチャイナタウンには、漢字が全くない。ニューヨークでもサンフランシスコでも漢字は見受けられた。アジアのインドネシアで、なぜ?という疑問が出てきた。それは、65年の9・30事件以来、対中関係が悪化し、67年に中国との国交を断絶、漢字の使用が禁止されたことによる。そのため、英語は話せても漢字は書けない華人が多くなってきているそうだ。

ジャカルタ国際貿易展示場会社で空港跡地再開発計画の概要説明を受ける
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 ジャカルタ国際貿易展示場は、旧空港の跡地のど真ん中にあった。日本人スタッフの猪俣さんとインドネシアの関係者の方々6名が迎えてくださった。猪俣さんから、ここの会社の歴史、日本とインドネシアの出資比率など目的、設備、概略や将来構想の説明をしていただき、そのあとこの八日から始まっている機械装置、部品の展示会を見ることになった。
 インドネシアの輸出振興と国内市場への売り込みを目的としたとあらゆる産業の展示会をする法人組織だ。出資は、日本側は海外経済協力基金(OECF)と銀行、商社、電力、ガス会社など59社で42.5%、インドネシア側がジャカルタ州政府、中央政府、民間で57.5%で90年に設立された。440ヘクタールの空港跡地の再開発計画はちょうどバブルの時に計画され、その一割がこの国際展示場が占めている。広さは幕張、晴海の展示場よりも広い。年間50本のフェア、エキジビジョンをこなしている。
 ピンクのスーツを着た女子社員が、「コフィー、ティー?」と私たち、一人ひとりに声をかけて回っている。爽やかで品のある女性だ。
 予定では、既に高速道路が開通していて、高層マンション、9ホールのゴルフ場、ホテルが4、5棟、建っていなければならないのですが、あと10年はかかる。流暢な猪俣さんの説明は続く。でも、ジャカルタ・フェアのときは、ひと月に200万人もの人が入場し、日曜日なんかは人人人の波波波だと言う。現地の方々の中には、百貨店の店舗のように思っている方もいる。インドネシアに商品を売り込みたいということがあれば、是非この会場を利用していただきたい。
 VIPの名札をつけて、会場内を見せてもらうことにした。APECの会場にもなった6階建てのトレード・マートの講演研修会場、常設展示場を見て、ABCとある展示会場を回った。明るい展示場で、各ブースのスペースも大きくとってある。日本の企業も数社、ヨーロッパ、USA、台湾、韓国、シンガポールなどもあった。もちろんインドネシアの企業も出展していた。機械や工具などがほとんどで管材関係のブースは、2、3小間であった。
展示会場でステンレス・バルブのブース  もう一度部屋に戻り、空港跡地の計画パンフレットや来年の開催のフェア、エキジビジョンの案内をいただき、ジャカルタ展示会場から市内に向かった。

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 街には所々、衛星テレビ用の大きなパラボラ・アンテナが、屋根の上、あるいは鉄塔を立ててほぼ真上に向けて設置してある。エディは「お金持ちの家しかアンテナはつけられないし、値段が高くて、だいたい小さいので40万、大きくなると100万円ぐらいします」と説明してくれる。インドネシアの平均的な給料では、買えない代物だ。
 ちなみにインドネシアは、1976年全土をカバーする通信体系確保のため通信衛星パラパを打ち上げた。これは世界で4番目、発展途上国では初のことである。

8 輸出入振興局の建物、前は自動車で混雑しているメインストリート。午後、こちらの通産省の輸出入振興局を訪問した。局長のツルキフリさんと部長のライラさんが応対してくださった。通された局長室にはスハルト大統領の写真と右側にトリ・ステレスノ副大統領の写真が飾ってある。ここではガイドのエディに通訳をしてもらうことにした。
 局長より歓迎の意を述べられ、私たちの視察の趣旨、業界の現況を説明した。展示会場で見られたように、まだインドネシアで生産できないものもあり、すでに生産できるものもあります。インドネシアの発展には、日本をはじめ諸先進国の企業のご協力はこれからも必要です。視察を希望される企業や工場があれば、当局や領事館に遠慮なく言っていただいて結構ですが、企業の紹介は当局から声をかけるより、むしろ直接、交渉していただいたほうが効果的です。
 ともあれエバラ・インドネシアとブカカを紹介していただいた。「次の訪問先の機械金属化学工業局のほうで、金属関連工場のリストや技術のレベルなど詳しくたずねていただいたら良いかと思います。こちらからも、連絡しておきます。」と局長は締めくくった。

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 インドネシアでは、多数決で物事を決めるのではなく、全員で合意するまで繰り返し話し合うことが重要とされている。ある日系企業で賃上げを決める労使交渉が決裂し、労働省に調停を依頼した時の会話である。
 労働省「何回話し合ったのか」
 会社・労働組合「5回です」
 労働省「話し合いが少ない。もっと話し合いなさい」
 日本の場合、5回は必ずしも少ない回数でないかもしれないが、まず回数が問題というのが、いかにもインドネシア的である。1回のインドネシア訪問で、何もかもスムースに進むことを期待することが、所詮無理なこと。インドネシアとの取引きを具体化したいと思えば、日本の領事館を訪ねたり、インドネシアの企業を訪問したりして、回数を重ねることが、うまく行く方法だと言える。回教?の国だからではないと思うが。

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 機械金属化学工業局を訪問した。先ほどの輸出入局と違って雰囲気に活気を感じられた。通産省の9階にあったが、ここの会議室にもスハルト大統領とトリ副大統領の写真、スマトラからパプアニューギニアまでのインドネシアの地図が飾られていた。
 かつて日本に留学したことがあるエフェンディ局長と2人の部長アグス氏、アロハディアット氏が迎えてくださった。名刺交換をしてから、私たちの視察の趣旨、業界の現況を説明した。
機械金属化学工業局の会議室。左から2番目が私  エフェンディさんは、日本語で話してくださった。自動車工場はインドネシアに22工場あって、昨年は年間38万台を生産、2000年には60万台を生産予定です。二輪は100万台を生産。それだけ生産していても、自動車部品はインドネシアであまり生産していなくて、半分程度は輸入しているのが現状です。だから、皆さんがこのインドネシアで自動車部品産業の振興のお手伝いをしていただければ幸いです。蛇足ですが、この秋名古屋と埼玉へ行って、政府間レベルで日本の自動車業界の方を交えて話し合いをする予定です。と。
 どうも自動車関連というPRが先行してしまって、自動車の話になってしまった。管材関係のバルブ工場、鋳物工場などについては業者のリストをいただいくことになった。日本よりのお土産をお渡しして機械金属工業局を後にした。

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 ジャカルタ市内には、路線バスは走っている。クーラーがついているのは、乗車賃が高い。オンボロバスも走っているし、ドアーのところにぶら下がるように乗っている若者もいる。高校生の間で、曲芸のように乗ったり、無賃乗車が流行っているそうだ。
 それにしても、バス停がないのはどういうことか。道端に人が何するともなく、立っている老若男女がいる所は、バスが留まるところと思ってよい。バスというものの歴史が浅いからなのか、幹線道路までは出てくるが、何とはなしに、待っているのだ。にわかバス停には、タクシーを待っている人もいて、懐かしいダイハツ・ミゼット(荷台に6人が乗る)、オートバイ(子供2人と大人1人が最大)、三輪(2人)、そして普通の乗用車のタクシーがある。私たち旅行者は、ホテルや空港につめているタクシーは安心して乗れるが、流しているタクシーには、二の足を踏む。

投資調整庁(BKPM)でインドネシアの経済投資を受ける

9  続いて訪問した投資調整庁(BKPM)は、各々にマイク設備のある会議室に通され、インドネシアと日本の旗がテーブルのセンターに飾ってあった。政府関係の会議室には、必ず大統領と副大統領、インドネシアの地図が掲げてある。
 アスリル秘書官が応対してくださった。名刺交換をして、インドネシアの経済発展や投資調整庁の概要を説明してくださった。通訳は、ガイドのエディが引き受けたが、数値の単位や専門用語については、不確かさが残るが、まとめると次のようになる。
 アスリル秘書官より、歓迎の意のあと、長期30年計画のうち、第6次5ヶ年計画を残すだけになった。1970年頃インドネシアは、非常に遅れている国と言われたが、この25でインドネシアは成長発展を遂げたと思っています。その頃の個人所得は70米ドルで、輸出量は100億米ドルにも満たっていなかったが、93年には1000米ドル、輸出量は400億米ドル以上になっています。
 1963年から83年までは、海外企業には閉鎖的で、インドネシアの国内企業を保護する関係上、いろいろな規制があったが、84年から国際化を図りそれらの規制は徐々に緩和し撤廃してきた。そして外国企業誘致のため、税制やインフラなど当局として様々な手段を講じました。
 この結果、日本やNIEsからの投資が急増して、設備投資、個人消費が拡大したが、インフレ、対外借り入れが急増、景気が過熱しました。そのため、金融引締政策が行われ、景気調整局面を迎えることとなった。一方、繊維、電気製品を中心に輸出は伸びていて、93年に2回にわたり行われた大型規制緩和によって外国投資は回復、93年秋以降は証券市場も拡大しつつあります。と。

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 1989年12月、シンガポール政府によって発表された「成長の三角地帯」構想は、シンガポールとその北に隣接するマレーシアのジョホール州、そしてシンガポール海峡を隔てて南西に位置するインドネシアのバタム島とビンタン島を中心とする地域、この3地域を、関係3カ国の協力で工業、貿易、観光の一大中心地として総合開発し、成長させようというものである。
 この構想を提唱したシンガポールの狙いは、シンガポールがハイテク産業、ジョホールが中程度の産業、インドネシアが労働集約型産業というような役割分担を行うことにある。労働市場の限界を察知したシンガポールは、この開発事業参加する企業には、お得意の税制優遇措置を施したことは、言うまでもない。
 インドネシアは、シンガポールがマレーシアから分離独立をする際それに強硬に反対し、経済封鎖を行なったという因縁があるので、このプロジェクトは政府間の動きが先行して進められてきた。
 バタム島はシンガポールの南東海上20q交通の要衛に位置する。1日約70便のフェリーが就航している、航海時間は45分。人口14万。ホテル、レストランではシンガポールドルも通用する。必要物資の多くはシンガポールからの輸入で、シンガポールとの経済的結び付きは深い。
 インドネシア政府は、このバタム島を工業開発重点地域に指定し、70年代初めから開発スタートさせた。3カ国はこの地域の開発を競争的に行なうのではなく、それぞれが自国の優位な点や不足しているものを相互に補充し合いながら発展を図ろうとするものだ。九三年の資料によれば、バタム島のワーカーの平均賃金は、シンガポールの2分の1、管理職クラスでは3分の1程度で、労働コストはジャワ島の約2倍となっている。
 ビンタン島では、92年より北部の海岸地域でリゾート開発に着手し、ゴルフ場建設、港湾設備やヘリポートなども整備されている。また、ビンタン工業団地の開発が推進されている。

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 輸出入局で局長室にあるのトイレを借りたが、ホテルのバスルームほどの大きさで、浴槽もあった。洋式のトイレの横に水桶があって、手桶が無造作に置いてある。右手で水を汲み、それを流しながら、左手で不浄な部分を洗うのです、とガイドのエディは笑いながら説明はしてくれるが、実演はしてくれないので、ピンとこない。これから風呂に入るときや、下半身がヌードであれば、水で洗っても服は濡れないので構わないが、ズボンを半分ずらしていては、どのように洗うかは非常に難しい。エディは、日本にいた1年間は非常につらい思いをしたと言う。紙で拭くよりは、水で洗うほうがサッパリとすがすがしく衛生上よろしい。と。思わず納得。

 

ジョグジャカルタの市街10.  今日は、ジョグジャカルタまで足を延ばして観光の一日だ。空港より国内線に乗る。約1時間の空の旅だ。ガルーダ航空のスチュワーデスがどことなくツンとしていて、表情が乏しいのが気にかかる。
 1891年このジョグジャカルタの近くのソロでピテカントロプス・エレクトスと呼ばれるジャワ原人の骨が発見され、数10万年前に人類が住んでいたとみられるが、詳しくは分からない。紀元前に中国南部やマレー半島から、ジャワに定着したのがインドネシア人の祖先とされる。その頃には、精霊信仰(アニミズム)が広まった。紀元後1世紀から7世紀にかけ、インド南東部より、ヒンドゥー教や仏教、サンスクリット語のインドの宗教、文化、風習が伝わった。
 7、8世紀頃、各地でヒンドゥー・仏教王朝が栄え、中部ジャワでは、シャイレンドラ王朝時代に大乗仏教のボロブドゥール寺院が、またマタラム王朝時代いヒンドゥー教のプラバナン寺院が建立された。13世紀に東部ジャワで勃興したマジャパヒト王朝はインドネシア群島のほか、北ベトナム、マレー、フィリピンまでのヒンドゥー王国を築いた。
 その後、イスラム商人が香料を求めインドネシアに渡来して、イスラム教を伝えた。隆盛を極めたマジャパヒト王朝は、イスラム教のデマック王朝に破れ滅亡し、イスラム教はバリ島を除く群島のすみずみにまで浸透した。
 1511年、ポルトガルがインドネシアに上陸し、デマック王朝を征服し70年間支配するが、1602年オランダが東インド会社を設立して、現ジャカルタに総督を置き、植民地経営を開始。350年間オランダの植民地下にあったが、1942年から日本軍が3年間占領したが、日本軍が降伏した2日後、スカルノとハッタが独立宣言をした。
 国民の90%はイスラム教徒で、残りはキリスト教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒となっており、世界最大のイスラム教国となっている。しかしながら、憲法で宗教の自由が保証されており、イスラム教は国教に定められていない。聖地から一番離れた東端に当たるのか、名目的なイスラム教徒が半分以上占める。
ボロブドゥール寺院を散策する私  ボロブドゥールの寺院前には、みやげ物屋や露天商が立ち並び、バスを降りた途端に「ミッチュ、センエン」「ゼンブ、シェンエン」と大人から子供まで付いて回ってくる。入口までうるさく付きまとう。帽子を3つ千円で買っても、頭はひとつしかない。初め3つが4つに、4つが5つ千円になるから恐ろしい。
 境内の中は、ゆったりとした空間で、ボロブドゥールの寺院がひっそりと、荘厳に見えている。全人類の文化遺産を、目の前にすると、神秘的で歴史の重みを感ずる。木陰で涼んでいると、静寂の中、虫の音が聞こえる。赤とんぼも空中散歩をしている。実にホッとする、ひとときである。じっとして浸っているとタイム・スリップをして、吸い込まれそうだ。
 ここボロブドゥールの案内書は、インドネシア語、英語、日本語の3つが用意されていた。石段の手すりは、吋2分のパイプとコマ印のエルボであった。
 お昼ごはんは、プスタ・プラッというジャワ料理のビュッフェの店であった。約30種の料理が並んでいる。揚げ豆腐や家庭の惣菜から焼き飯、ビーフン、コーヒー、くだものまで。インドネシアのどこのお店でも、焼き鳥はおいしくいただける。民族衣装を着たウエートレスさんはたいへん陽気で楽しい。大瓶ビールは、6600RP(約330円)と安価であった。
 ジョグジャカルタ市は、戦後の混乱期、一時首都にもなったこともある、美しい田舎街である。今もマタラム王朝の末裔が住んでいる宮殿があって、観光の街、大学の街になっている。京都と姉妹都市である。ジャワ更紗バティックの産地でもある。
象の頭を触って賢くなった私 昼から、ヒンドゥー寺院のプランバナンを訪れた。近くのムラピ火山の噴火で、寺院が壊れ、修復中のところもある。これから時間をかけて、復旧する予定である。象の頭を触ると賢くなるとかシバの顔を触ると美しくなる、胸とお腹と触ると子宝に恵まれるとかの、謂れがある。
 ジョグジャカルタの街では、仕事は忘れて、家族や友人へのみやげ物を買ったりした。更紗のシャツを買って、昼からはそのシャツを着てみた。日本ではちょっと派手すぎる感じがする。銀製品を扱うお店では、何個か購入したが、合計もこちらでして、ディスカウントもこちらで提案して、商談成立ということもあった。インドネシア人は、少々計算には弱いように思う。が、陽気で、人が良く、おとなしい。同じ、島国なので共感を覚えてしまう。

11. ジャカルタ最後の日は、ポンプのEBARAインドネシアと昼からはインドネシアの大手企業ブカカを訪問する予定だ。
 EBARAインドネシアはジャカルタ市内から南へ32q。住宅街の中に約5万1000uの敷地、建物は2万u。インドネシアに8年もいらっしゃる柚木部長が応対してくださった。1980年12月に設立。当初、インドネシアと荏原製作所の50・50の合弁でスタートしたが、今は、45・55になる。従業員は300人。一部二交替制を採用している。月産1500台。インドネシアでは木型、鋳物、加工、組立、検査までの一貫生産をしていて、設計はエバラ本社管轄。主にポンプの製造と販売、水処理関係のエンジニアリングをやっている。工場内は旧式のマニュアルの工作機械を使っていて、この程やっとNC旋盤を導入した。輸出量、アジアの輸出先が増えてきて、全体の25%を占める。
EBARAインドネシアの組立てライン  外注業者は、大手企業から零細企業まで20社ぐらい。技術指導に手が掛かって困っているので、今、本社から応援に来てもらっているという。図面をきちっと見て加工できる現地の管理者は少ないのだ。そのためか今までに45人の現地人を研修のため日本へ送った。9カ月間行われフィリピン、ベトナムなどのエバラも一緒に勉強をするので、ライバル意識があって、かなり厳しい研修だそうだ。
 ジャカルタの東のブカシ地区の工業団地(EJIP)には松下電工などインフラが整備され綺麗な工場がたくさん立ち並んでいる、ここPT.EBARAインドネシアはBクラスでそこそこだと思いますが、と柚木さんは淡々とおっしゃった。
 会議室で話し中、イスラムのお経が聞こえている。近くにモスクがあるのか、金曜日は礼拝日か、はっきりしないが、1日に5回のお祈りをするうちの1回か何かだと思う。

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 ジャカルタ市内に戻って、昼食を食べた。一昨日、昨日より体調のすぐれない方も出てきて、何か私も胃腸がおかしくなってくる気配。でも、あと20時間経てば、我が家に着くと思うと、元気が出てくる。
 一昨日こちらの通産省の機械金属化学工業局の局長に紹介して戴いた、ブカカ・テクニック・ウタマを訪問した。ブカカはジャカルタの郊外にあって、インドネシアの代表する総合エンジニアリング会社である。
 一階の大きな会議室に通され、クスナン副社長が応対してくださった。副社長にブカカの概況説明をしていただき、さらに英語版のデモ・ビデオを映していただいた。九四年秋に開港した関西空港のボーディングブリッジ(飛行機と乗客待合室を結ぶ蛇腹型の通路)を納入実績があり、他に富山空港もある。製造する製品は、他にオイルポンプ、コンベヤーシステム、ストーニクラッシャー、アスファルトミキシングプラント、消防車など多彩だ。金になるものなら何でも手がける姿勢がうかがえる。
 技術導入は、特許やノウハウを契約を結んで買っているわけでなく、技術を所有する会社の定年直後の社員を技術アドバイザーとして採用している。他にインド、中国、ロシアからの外国人ワーカーが働いている。旅費は会社が負担しているが、給料はインドネシアと同条件で雇っている。
これは、高度の技術導入のための技術アドバイザー料が高いので、技術を習得したワーカーをまとめて採用するためだ。ワーカーコストの安い国では1人のアドバイザーより20人のワーカーのほうが効果的だろうというわけだ。
クスナン副社長と正面玄関で、一瀬氏、落合氏と私。  クスナン副社長は、たいへん愛想がよく暖かい笑顔の方で、ガイドのエディが通訳する形で進められた。実際に現場は広大で、製造も多岐にわたるため、オフィスのみ見せていただいたが、BGMの流れる快適なオフィスで、レイアウトも申し分なく、至るところにコンピュータがあった。Windows95のソフトも動いていた。クスナン副社長と一緒に記念撮影をして、ブカカ・テクニック・ウタマを後にした。
 夕刊の発刊されるころになると、交差点では少年たちが数人、新聞を持ってウロウロしている。信号待ちの自動車に売りに来る。こちらの英字紙としてはジャカルタ・ポスト、インドネシアン・タイムズがあり、日経、朝日は衛星通信によりシンガポールで印刷され、午後にはジャカルタに入ってくる。7000RP、約350円。

12. 大阪組は無理を言って、今夕のジャカルタ発のSQ便、シンガポール経由、NH便で日本へ帰るので、スカルノ・ハッタ国際空港までバスで送ってもらった。早めにスケジュールを消化できたので、空港には、十分、余裕をもって間に合った。落合さんとガイドのエディに再会の固い握手(右手で)をして、出国ゲートをくぐった。
 シンガポール・チャンギ空港のトランジットは、国際色豊かな百貨店のようだ。様々な国の人がいる。酒とタバコの免税店は一番人気のお店だ。ここで3時間半の時間待ちがあるが、ソファーに座って、往き交う人々を眺めているだけで楽しくなってくる。
 全日空便は23時20分発だ。日本まで5時間55分のフライトである。

 外国へ進出していった企業の中で成功している企業もあるし、不成功に終わった企業も少なくはない。進出、撤退で浪費する体力は相当なものだ。空洞化して外へ行かざるを得ない状況であっても、何も直ぐに海外進出という発想は単純すぎる。韓国、台湾がダメならフィリピン、タイがある。フィリピン、タイがダメならインドネシア、マレーシア・・インド、ベトナム・・アフリカ。
シンガポール〜関西空港の搭乗券  最も大切なのは、本当に海外で事業展開をする必要があるかどうか、である。海外進出の本はかなり出版されるいる。日本との実際の距離、時間的距離もあるし、お互いの許される文化圏の範囲となる。一旦、進出すると決めれば綿密に計画して進めていくのは当然だが、しかしここで、撤退や凍結の心得を十分に考えておいたほうがよいと思う。アジアの華人たちは、その点シビアに決めてくると聞いている。
 「郷に入れば郷に従え」の諺のごとく、その国の文化、風習に浸ることを余儀なくされる。インドネシアはイスラムの国である。金曜日の昼にはモスクで1時間ほどの礼拝を行なう。イスラム暦第9月は1カ月間断食(プアサ)を行う。この間は、夜明け前に食事をした後、日没まで一切の食事はとらず、水も飲まない。そんな時は、1時間でも早く帰宅させてあげる思いやりが必要だ。
 海外に進出して云々より、国内で生きるすべを見つけ出せれば、そんなに幸せなことはない。また、今一番経営者に求められている手腕ではないだろうか。政府レベルでも民間レベルでもあまり調子にのって海外援助や進出をしないことが重要だ。出る杭は打たれ、第二のペルー事件を誘発することになりかねない。つまるところ「ほどほどに」というのが、私たちの最良の選択になるのではないだろうか。
 朝4時に朝食で起こされボーとしていたが、今、飛行機は四国上空を飛んでいる。6時、はるか太陽が眼下に見える。夕日よりも、鮮やかで日差しが鋭い。とても眩しい。まもなく、関西空港に着陸だ。
 シンガポール・インドネシアを訪問して感じたことは、日本はアジアの中では、まちがいなく兄貴分だと言うことだ。しかしながら、経済感覚のたいへん優れた弟みたいな叔父が暗躍していて、足元をすくわれるかもしれない恐れがある。日本人として意識をしっかりと持たねばと、思った次第。
 シンガポールとインドネシアと比べると、住心地さからは断然シンガポールのほうが快適だと思う。日本と全く同じと言ってよいほどのスーパーマーケットがある。単身赴任用におにぎりやお寿司の盛り合わせまで整っている。イギリス色を前面に出して、したたかな華人主導によるアジアが混合した雛型と言っても過言ではない。でも、少々窮屈な感じがして、型からはみ出る人間には向いていないように思う。
 それでは、インドネシアのほうはどうかといえば、限りなく浪花節の雰囲気が感じられる。まさにある在阪球団のイメージ。「調子がええねんけど、陽気やけど、何んかがドン臭い」。ビジネスチャンスは、シンガポールよりインドネシアのほうが、おもしろいのでは、と思ってしまう。生活するには窮屈な感じはないけれど、急激なインフレや政局が急変して慌てふためく不安定な感じは受ける。
 限りない可能性を見いだせそうな、そして未踏の神秘性に出くわしたツアーでした。[完]



[あとがき]このツアーでたくさんのことを教わり、気づきました。一緒に同行された方々をはじめ現地で頑張っている邦人の方やシンガポール、インドネシアの方々にも、同じアジア人として、学ぶところがたくさんありました。また、この手記を編集するにあたりまして、同行されました商経の舟橋さんはじめ、プレス・スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。

参考文献
▽インドネシアでの事業展開 鰍ウくら総合研究所、環太平洋研究センター編
▽シンガポール 田中恭一著  ▽最新アジアビジネス最前線 増田辰弘著