▲コラムへ戻る
 
日本人の心

 二十年前、管材新聞が発刊されたころ、日本は欧米の諸国から日本はエコノミック・アニマルと呼ばれた。日本人はお金つまり仕事のことしか考えていないように外国人の目には映ったようだ。 日本のサラリーマンには「人間らしく」というよりも、企業人であれ。世間は「とにかく会社、会社」と言う。欧米に追いつけ追い越せというスローガンで経済活動に精神全霊をぶつけて、どっぷり漬かっていた。
 その結果、この二十年間で世界の経済地図は大きく様変わりをしてしった。日本は欧米の先進国を抜いて世界一の経済大国となり上がってしまった。一面では、我が日本民族の優秀性が証明されたのである。
 しかしながら、世界で一番のお金持ちであるはずの日本で今もなお毎日毎日汗を流して働かねばならないのかが不思議である。国が慢性的に貿易赤字で苦しんで、他の国への債務があるなら納得できるが、貿易黒字であり、しかも他の国々へ援助している立場にいる国である。それなのに、まだ一生懸命に働かないと生きて行けない。高齢化社会が到来していて、就労人口の割合が少なくなっているせいもあるかもしれないが、以前よりも一人当たりの仕事量が増え、仕事の質も向上しているのにいっこうに良くなっている気がしないのは私だけでしょうか。
 言うまでもなく鉱物資源が乏しく、穀物の自己自給率も三十%を割る日本だからしようがないと言われれば、それまでだが、あまりにもバランスが悪く歪(いびつ)である。
 万が一戦争が勃発すれば、たちまち食糧不足に陥ってしまう。三分の一しか供給能力しかないのだから、数字上では三人に一人しか生き残れないことになる。
 日本の実際の姿は、マスコミでもあまり取り上げられていないし、某教団のその後や住専の問題など、視聴率が上がる内容のものしか取り上げない。放送局も営利に走って、駆け引きをし「やらせ」もはびこっている。真面目な国民が知りたい本物の情報はマスコミには載って来ないのが実情である。

 この二十年で私たちは日本人の心 −「佗寂(わびさび)」の心− を忘れてしまったのか。学校では俳句や短歌はどういうものかだけを教えていて、実際に俳句や短歌の作り方を教えてはくれない。ごく身近にある美しい自然に浸って、それから受ける気持ちをどのように描写して表現をするか。なんと私たちの祖先の人たちはなんと優雅で心が豊かであったのだろうか。
 既成の知識を教わるだけの教育、つまり受験のための教育になってしまっている。そこには日本人の知恵はない。問題を出されると実にすばらしい解答を出せるように訓練されてはいるが、自分で問題点を探して、前もって対処していくことは不得意である。実際の社会では、ほとんどの場合は後者である。社会の情勢を見て自然界の動きを見て、考えて感じて、悩んで、決断をして、そして生きていく。
 それが、近年の経済発展により、忘れてしまったのではないだろうか。物質的に豊かな生活に慣れてしまうと、健康であったはずの心が、いつの間にか貧弱になってしまう。  コンピュータを導入し、効率化、能率化を追求して、インターネット化等を進めていくことが、人類の進歩なのか疑問に思うときがある。世界の情報が瞬時に茶の間に入ってくる。地球の回りを無数の人工衛星が飛び交い、衛星のナビゲータ・システムによって、どこで誰が何をしているかまで情報として入手可能になれば、人間社会として秩序が保たれていけるのかと、将来に向かって不安に思う。
 そういうグローバルな情報社会を私たちは目指しているのか、果たして人間が求めている純粋な家庭の和やかさや安らぎは、どこへ行ってしまったのだろうか。
 実際、私たちがどんな状況にいて、どの方向へ進んで行っているのかはまったく分からない。「佗寂」の世界ではないことだけはハッキリしている。
 私たちが進んでいる先には、べらぼうに高く幅の広い硬い壁があって、世界の国々が競ってその壁に向かっている。すでに壁にぶち当たって崩壊した国もあるし、今まさに当たろうとしている国もある。当たらざるをえない国もあるだろう。
 人類史上で決して避けることのできない運命の壁が、私たちの行く手に大きく立ちはだかっているかもしれない。(1996.4 管材新聞掲載)