「中国経済視察」に参加して 1993.5.2〜5.9
 

1.7年半ぶりの訪中   ゴールデンウィークの名古屋国際空港は、連休を利用しての海外旅行をする人たちや見送りの人たちで早朝にもかかわらずごったがえしていた。
 昨年の秋、田中角栄元首相が訪中し、アメリカ大統領選挙の真只中、天皇陛下が御訪中された。その事実がたいへん気懸かりで、脳裏にこびりついている。アメリカは「ふたごの赤字」をかかえて、日本叩きは今後も続くだろうしアメリカは日本にとってお荷物になってしまったような気がしてならない。日本からのなんらかの援助がなければ、アメリカはもう息ができなくなっていると言っても過言ではない。
管材新聞の連載記事1(1993.6.16号)  「今、なにゆえに中国なのか」という仮説を胸に抱きながら、商工経済新聞社主催「中国経済視察」7泊8日に参加することになった。私にとって、中国は2回目で7年半ぶりの訪中となる。89年の天安門事件以降、自由市場経済政策を実施して、どのように変貌したか、この7、8年の中国の発展を自分の目で確かめたい気持ちでいっぱいであった。
  9時35分、搭乗開始。定刻10時、JL787便は北京へ向け、力強く大空へ舞い上がった。「北京は、曇り、気温15度、到着時刻は12時40分を予定しています」とアナウンスが入る。機内のスクリーンでは、7時のNHKニュースが映りだした。「花巻空港で着陸に失敗した」というニュースは、あまり気分がいいものではない。機内サービスのドリンクが運ばれてきて、うす紫と水色のキャビン内にはホッと安堵感が漂う。

  今回の訪中は、北京で開催される国際工作機械展「CMIT93」の見学と北京、瀋陽、大連の機械・鋳造の工場を12社を見せていただくことになっている。首都北京は別として、中国東北部は戦前の満州時代より日本企業が進出し、戦後は旧ソ連が技術指導した中国有数の重工業地区ときいている。特に鋳物製造に関しては評価も高く、日本への輸出も拡大一途といったところである。
  となりに座っている東海日中貿易センターの倉田氏は、このツアーのコーディネーター役をして頂いた。北京にも事務所があって、3年間北京に駐在されたときく。日本と中国の商取引において何らかのお手伝いは出来ないかという民間の団体だそうである。中国語もご堪能で、私たちのツアーにとって、たいへん頼もしい存在である。ツアーは総勢15名。トヨタグループ関係のメーカー工場や商社の方々、工具関係のメーカーの方々、鋳造メーカーバルブメーカーそして大阪より活黹m瀬の一瀬社長と私が参加した。
  「あと、20分で北京空港へ着きます」とアナウンスが入る。12時40分、着陸体制。12時40分、着陸。
  北京空港では、共産圏の国独特の張り詰めた雰囲気はなくなっていた。国際線よりの入国審査も手荷物検査も簡単に済ます。フリーパス同然といった開放ぶりである。以前訪中したときとは全く異なり、身体検査はない。入国を済ませ、ロビーに出るとブレザーを着た中国人が「タクシー、タクシー」と寄ってくる「不要(プーヤオ)」と応えるが、また別の中国人がうるさく「タクシー、タクシー」と寄ってくる。呼び込みは凄まじい。7、8年前は、顔つき目つきが、私たち「よそ者」に対していわゆる恐れや不安を持っていて気軽に声をかけられることは皆無であった。共産国にやって来たのかと、自分の目を疑ってしまう。テンポの早い流暢な中国語と、人が多いのとでムンムンする活気が肌から伝わってくる。
  空港ビル前には「上海号」のタクシーに変わって、黄色や赤色のタクシーがずらっと並んでいる。クラウンやシャレード、ボックス型の軽自動車のタクシーでである。
  さぁ、中国はどんな驚きとヒントを与えてくれるのだろうか。私は胸をふくらませバスに乗り込んだ。

2.躍進著しい経済   北京国際空港より北京市内へ高速道路が出来ていた「へー高速が出来たのか」自動車の交通量もかなり多くなっている。高速道路はまだ市内まで完成しておらず、一般道路に入った。三頭だてのトロイカといわれる馬車は姿を消している。自転車が多いのは相変わらずだが、しかし、30インチもある黒色の自転車に変わってデザインのよいカラフルな自転車が増えていた。
2000年オリンピック招致の看板   服装も、紺色、ねずみ色の人民服を着ている人はほとんど見あたらず、男はブレザーやジャンパー、女性はスカートや足首まであるスパッツ(今、中国では流行っている)を着ていた。街がカラフルになっている印象を受けた。中には、ミニスカートを着て自転車に乗っている女性もいた。
  至るところの交差点、街道には、西暦2000年のオリンピック北京大会の招致看板と BEIJING IS WAITING FOR YOU.(北京はあなたを待っている。)という看板が目についた。
  バスでは、東海日中貿易センターの北京事務所の方々の紹介があった。ひとりは張さん(女性)、もうひとりは阮氏である。ふたり共日本語をじょうずに話された。一般の観光ガイドとは異なり、親しく接することができそうだ。

  私たちは、まず国際工作機械展「CIMT93」の主催している中国機床工具工業協会を表敬訪問した副総幹事長の廖さん(女性)をはじめ、鋳造技術の専門の方、貿易の市場開発担当の方々と会った。
  5日から始まる世界で第4番目規模の工作機械展への招待のお礼と人民大会堂でのレセプションの招待のお礼を申しあげた。
  躍進著しい中国経済だがその好調の波を支えているのが機械工業と関連機器の積極的な導入といえる。中国は91年から第8次5カ年計画をスタートさせ、一層の産業界発展を狙っており、GNPの伸びは年平均6%を予定している。因みに中国の外貨準備高は約400億ドル。この5年間に3500億ドルの輸入計画があり、工作機械は30億ドル輸入の予定である。
  名刺交換をして、私たちは5日から始まる同機械展での再会を約束して協会を後にした。
  バスは、北京市内に入って来た。車、自転車、人、がほんとうに多い。クラクションの音も耳ざわりだ。信号があっても人や自転車は、あまりそれをたよりにしていない。交通事故が起こらないのが不思議だ。
  バスが進む道路の中央は高架環状道路の建設現場がつづいている。10qいやそれ以上かもしれない。一度に道路建設を行なっている。空港からだと数10qになるだろう。実に建設にたずさわっている労働者の人数はものすごい数になる。どの現場にも絶え間なく人夫が手作業、機械作業をしている。
  紀元前、秦の始皇帝が北方の遊牧民族の侵入を防ぐため、30万の軍兵と農民百万を徴発して築いた万里の長城のごとく、一度に工事にかかることは、中国古来の伝統的なやり方なのかと納得せざるを得ない。
  それにしても、すごいパワーである。技術陣は別として中国の労働市場の豊かさには、驚くばかりか脅威を感ずる。
  北京で宿泊する京倫飯店は、建外大街に面していた。ちょうど天安門から西へ数qに位置する。チェックインを済まし、今日の2番目の訪問先、中国機床総公司を訪ねた。
  同公司は中国で最も大きい工作機械・工具関係の輸出入商社である。権総経理(社長)をはじめ対日輸出担当の陸氏、陳氏が私たちを迎えてくださった。名刺交換の後権社長自ら中国における工作機械・工具業界の概要をホワイトボードで説明して頂いた。
  中国の工作機械・工具メーカーは約1000社、従業員数は70万人を越える工作機械、鋳造機械、木工機械、測定機器、切削砥石機械付属品に分けることができる。  中国の工作機械生産台数は91年が約16万3000台前年比21.9%増。金額は11億800万ドルで同30.7%の増。92年には17億4000万ドルで20.3%の上昇となっている。これは世界全体からみると第10位。また中国国内の生産台数に輸入台数をプラスした機械の市場規模は92年は23億7800万ドルとなり、これは対前年比30.7%の伸び、市場規模では世界の第5位に躍進した。今年も前年比25%増が見込まれている。
  質疑応答のあと同公司のご好意で北京国際飯店での招宴となった。

  ホテルに帰ると、一日の疲れがどっと出てくる。日本より持ってきた電気ポットでお湯を沸かしコーヒーを入れ、同室の一瀬さんと一日目の中国の雑感を語り合った。

3.空調完備し精度維持、超一流の工場   次の朝、6時30分。目が醒め、コーヒーを入れた。今日は、午前中は盧溝橋近くの鋳造工場、昼から北京市内の工作機械工場と自動車エンジン工場を見学する予定である。
  出発の時刻に合わせて中華スタイルの朝食をとったお茶、お粥、揚げパン、焼売、鳥の足の煮物、中華風パンの六品である。8時ちょうど私たちは出発。天安門広場と前門の間を通り、北京市の西南の方向へバスは進む。高速道路に入った。超車道、行車道とみどり地に白字の大きな標識板は、追越車線、走行車線である。漢字をよく読むと意味が分かるものがあるので、実に楽しい。
  バスの速度が遅くなった「あれが、盧溝橋です」かつて、西方からの旅人はこの盧溝橋を渡って北京へ入ったといわれる。マルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で「川には立派な橋がかかっている。おそらく世界でもまれに見る美しいものであろう」と記しているが、なるほど重量感がありアーチ型が美しい。しかし初夏の陽気と離れているので埃っぽく見える。日中全面戦争の発端の場となった盧溝橋、改めて平和の尊さを痛感させられる。
  9時すぎ、北京第二機床廠鋳造廠を訪問した。煉瓦造りの事務所に入る。まるで大学の研究室の廊下のようである。照明は暗い。応接室に案内され、生産処処長の宋氏と名刺交換をした。同工場は主に北京第二機床廠向けの工作機械の鋳造をし材質はFC。通常単重5トン以下のものを製造している。日本の旋盤メーカーと技術提携していて輸出しているそうだ。敷地11万u、人員900名、生産量5000トン以上。
  ジャスミン茶が運ばれてきたが早速工場内を見せていただくことになった。鋳物工場に足を踏み入れ型枠の大きさに驚いた。使用砂の加減のためか、単重が大きいためか、湯を流す前の型を修復している。荻野氏(豊和鋳機専務)にたずねると「内モンゴル産の5〜6号硅砂ですよ」と言われた。
  宋氏の説明では、5トンキューポラの操業をコンピュータ制御に改造計画中とのこと、積極的に設備改善に取り組もうという姿勢は感じられる。製品の納期は木型を提供して3ヵ月、不良率は8%賃金は鋳造部門で平均600元(賞与含)など私たちはいろんなことを教えていただき同鋳造廠を後にした。

  舗装をしていない道路は砂埃が舞い上がり、何かの花粉のような綿も飛んでくる。小さな売店があった。老婆が店番をしている。タバコ、飲み物、駄菓子、インスタントラーメン。先程からバスは踏切りの手前で止まったままである。
  老婆と目が合った。まだバスは止まったままである。私は窓を開けタバコを吸う仕草をした。並んでいるタバコの適当なものを指差すと、老婆も目と指で応じた。老婆は背伸びして手渡してくれ、5元札と交換した。ところが老婆は何か文句を言っている。私の渡した5元札が問題らしい。
  阮さんが助けに来てくれた。私の渡したお金は兌換紙幣で、老婆は人民紙幣でないので偽札と思ったようだ。

  昼からは、北京第一機床廠を訪問した。ちょうど宿泊している京倫飯店の向い側にあって、北京市内のど真ん中にこんなに広い工場があったのかと驚く。マイク設備の整った広い会議室に通される。
  同工場は中国最大の工作機械工場で、敷地面積71万u、人員9100名、生産額1億8000万元といった規模である。副総経理の徐氏と名刺交換をし、早速工場内を見せて頂いた。
北京第一機床廠にて   工場内の整理整頓は行き届いて、NCの機械も導入して充分に使いこなしている。組立工場では空調設備も完備され、精度の維持管理も考えている。最大60トンのッドが製造可能で日本の機械メーカーに25トンのベッドを輸出した実績ももつ。ワールドリヒ社との技術提携して作ったという門幅5m、長さ28mの巨大な機械にはビックリさされた。国内で超一流を誇るだけに信頼性は非常に高い。日本があぐらをかいていると足元から崩れていきそうな気がしてならない。
  工場が広いこともあり次の予定もあるので鋳造工場は見学できなかった。まことに残念。ちょうど休憩時間になったのか、職員の皆さんが工場の外へ出てきて、構内送の音楽に合わせて体操をしているところだった。名残惜しく第一機床廠に別れをげ北京内燃機総廠へ向った。


4.鍛造品から研磨加工   バスは北京市の南東に向って進む。バスに乗ると外を眺めるのが我々人間の習性かもしれない。相変わらず、車、自転車、人が多い。時々「おーっ」という女性を見かける。銀座や北新地から出張して来ているのかなぁと目を疑う。サングラスをかけ、真っ赤な超ミニのスーツにハイヒールの女性が北京の街を歩いている。
  国というものは何か国際イベントを成し遂げるたびに大きくなるというのが自然なのであろう。90年のアジア競技大会以後はかなりのテンポで国民の意識が変化しきていると、女性のファッションからも実感できる。もし2000年にオリンピックが開催されれば、何かにつけて加速度を増して成長するにちがいない。
  北京内燃機総廠は工場から工場へバスで移動するほど広い工場であった。合資等備処(JV)処長の厳氏と進出口貿易部の呈氏と名刺交換をし、呈氏から概況をお聞きした。
  敷地面積100万u、人員2万5千名(三交代制)、昨年生産実績22万台、今年は30万台を目標。中国最大規模の自動車エンジン専門工場である。
  各エンジン毎に工場を分離し、ほかに鋳造、鍛造、木型、治具、加工、修理、研究所などがある。本社以外にも付属品の工場が分散して設置されている。カムシャフトの製造ラインでは、鍛造品から研磨加工仕上まで実に40数人もの職工がずらーと並んでいたのには驚いた。また組立ラインではビスが1〜2本欠如していても、そのまま流れていきそうな不安を、職工の動きから感じられた。
  工場を見学したあと同廠より具体的な要望があった。応対してくださった方がJV担当であったので日本企業との合弁、共同製作に興味があり、希望しているとのこと。特に鋳造部門の援助が欲しいし、技術も資金も両方来て頂ければという、初めての訪問にしては、かなり突っ込んだ内容であった。シリンダブロックのアルミ鋳物の不良率が15%とたいへん高いからかもしれない。
  浅野団長(アイシン高丘専務)からおみやげと記念品をお渡しし、私たちはバスに乗った。

  夕食は前門大街にある全徳というところで食事をした。北京ダックがおいしいと広く知られているこの店は、120年の歴史を誇る。客席数は約400と広い。壁には書画が飾ってあり、すばらしい美術工芸品であった。私たちは、2階の一番奥の新装した部屋に通された。きょうが初日だそうで、店主が「あなたたちは、初めてのお客さまだ」と歓迎してくださった。
  私たち団員15名と日中貿易センターの張さんと阮氏の、いわば身内だけの宴会であった。団員の皆さんのお名前もお顔も分かって旅行にも慣れてきたせいか宴は盛り上がった。
京倫飯店の9045室にて、左:商工経済新聞社の舟橋氏、中央:日中貿易センターの阮氏、右:私  中国の一人っ子政策の話になり、もし二人目を出産すればどんな罰則があるのかと、となりに座った張さんにたずねた。「もし二人目を産むと、罰金10万元です」と。5百元前後の給料では、気の遠くなる金額だ。「双子だったらどうなるの」という質問には言いにくそうにやっぱり二人目は罰金の対象になるという。張さんのしゃべりっぷりから、何か抜け道があるような気がした。実際のところその政策が中国の隅々まで浸透しているかは疑問であった。
  メインの北京ダックが運ばれてくる頃には、私の前には茅台酒のグラスが10個ほど並んでいた。お酒にはあまり強くない私だが、茅台酒は好んで飲めるほうである。ウイスキーよりはジンなどのスピリッツのほうが口に合う。ハッキリとは覚えていないが、20杯ぐらいは飲んでしまったようだ。
  ホテルに帰ってくると酔いざましに、味噌汁と梅干しを食べた。商工経済新聞社の舟橋氏が9045室で酒盛りをするので、お邪魔したが、ビールのみにとどめておいた。

 
第3回国際機床展覧会・開会セレモニー

5.CIMT’93を見学  翌朝「請東」と印刷をした招待状を持って、中国国際展覧中心へ出向いた。
  国際工作機械展「CIMT93」は、世界第4番目の規模を誇るだけに立派な見本市であった。会期は5月5日から11日までの1週間、今回は3回目の開催である。回を重ねるごとに規模が大きくなり、将来はEMO(欧州)、IMTS(米国)、JIMTOF(日本)に次ぐ見本市に成長することが予想される。
今回の出品状況は出品者は888社、展示面積22908u、入場者は約20万人を予想し過去最高。開催国の中国は出品460社、ドイツ103社、イタリア59社、日本45社、アメリカ43社、台湾41社、香港40社、スイス37社、以下スペイン、イギリス、チェコ、韓国等。
  5号館の前で開会セレモニーが行なわれた。仮設の舞台には関係者の皆さんがせい 揃いしていて、中国機床総公司の権社長も壇上にいらっしゃった。中国語と英語とで挨拶があった。ブラスバンドも入って威勢よく行進曲を演奏し、上空をリモコンの飛行船が舞い展覧会に花を添えていた。
  工作機械というと私にとっては業界が異なり専門外なので、展示されている機械の善し悪しが全く分からなかった。日本館では、はじめから展示品に売約済の貼り紙をつけていた。ココム規制の関係からかもしれない。最も観客を集めていたのは、台湾、香港からの出品ブースであった。ドイツや日本などが一段高いレベルの展示をしていたのとは異なり、観客のレベルに合っていたのかもしれない。
  しかし中国製工作機械のNC化は着実に進んでいて、技術躍進は認めざるをえない。本当は日本製の機械の購入を望みながら、また日本企業との技術提携、合作をもココム規制という壁のため難しく、これから21世紀に向け、工作機械業界は、中国大市場を目の前にしていかなる道をたどるのであろうか。
  昼食は景山公園の少し北にある(火ヘンに考)カオ肉李というレストランで食事した。このレストランは、かつて遊牧民族が野外で食べていた料理で有名である。薄切り にした羊肉を大きな円形の鉄板の上で焼くいわばジンギスカン料理の一種だ特製のタレのついた羊肉と青菜を焼いて、卵をつけて、立ったまま長いお箸で食べるのは、遊牧民がそうであったように豪快そのものである。実は、その焼肉の前にひと通りのコース料理を食べていたのだが、もの珍しさと、立食であったのでお腹の中に納まってしまった。
  お腹がいっぱいになって、前海のほとりを歩いてバスの駐車している所へと急いだ。海といっても湖ほどではなく、大きな池のようなものである。釣を楽しんでいる人たち、遊泳禁止の立て札があるにもかかわらず、向こう岸まで、幾度となく泳いでいる人たち、ベンチで肩を組んでいる若いカップル。中国将棋をしている年輩の男性もいた。日本と違って丸い駒だったが、数人のギャラリーを携えていた。また、「男女理髪」の小さな看板と鏡をフェンスに取り付け、露天で散髪屋を営んでいる店が数件並んでいた。実に中国らしい光景である。
露天の散髪屋さん   昼からは観光組、展示会組それと工場見学組に分かれての行動となった。展示会組は商経の舟橋氏、工場見学組は昨日の第一機床廠を再度見学、私は観光組を選んだ。
  天安門広場に立ってみると”中国にやって来た”という実感とまた別の不思議な感覚が大地よりこみあげてくる。改革、開放を繰り返しての近代工業国家への脱皮を試みた中国、経済自由化政策の波が押し寄せる中国―21世紀までに、この天安門広場で、また大きなドラマが起きるだろうか。今や中国は、私たちに残された最後の巨大な大国である。
  天安門の中央には毛沢東の肖像画、その左右には「中華人民共和国万歳」「世界人民団結万歳」のスローガン、門楼の上には国旗がはためいている。この天安門が故宮への入口となっている。
  天安門をくぐると左右にみやげもの屋が並んでいた。入場券売場となっている午門には、外人専用の入口が別にあり、英語、ドイツ語、日本語、朝鮮語など外人客向けに解説用のカセットテープのレンタルも用意されていた。7、8年前に故宮を訪れた時は、なにもなくもっと素朴で荘厳であった。国をあげて観光事業に力を入れていることがよく理解できたが、故宮の威厳が損なわれる気がして、寂しい思いがしてならなかった。
  阮氏が私たち観光組のガイドをつとめてくださった。今から五百年以上前、明の永楽帝により、15年の歳月と20万人以上の労働力を費やして築かれ、清代に改築された。東西750m、南北960m、面積72万u。建築物60余り、部屋数は9999室、宝物は100万点にも及ぶ。太和殿、中和殿、保和殿、乾清宮そして九龍壁と懐かしい記憶を甦らせ、改めて紫禁城の壮大さに浸った。

6.人民大会堂で宴会  中国機床工具工業協会から招待を受けたレセプションは人民大会堂で行なわれた。日中国交回復の際、田中元首相がここで盛大な歓待を受けたところだ。
  私たちは今までにはなくワクワクしていた。日本の国会議事堂にあたり、国家元首級の貴賓客を接待する宴会が催されるところと聞けば胸のときめきを覚えるのは、ごく自然な姿であろう。北門の入口で「請東」の招待状を見せ、中に入った。人の流れるままに階上へ。二階のホールには巨大な絵画が飾ってあった。
  五千人もの人を収容できるという大宴会場に入ると、もう大きさの感覚が麻痺してしまった。柱が全くない真四角のホールに、十人掛けのテーブルがぎっしりと並んでいるではないか。冷静になってテーブルの数をかぞえても、途中で分からなくくらいである。面倒くさくなって、だいたい3〜400ということとなった。
  天安門広場にしても故宮にしても、スケールが私たち日本人とは全く異なり、大陸で住むのと島国育ちの感性、価値観の違いを歴然と見せられた。せかせかと動き回るのではなく、ゆったり凛然と生きてきた中国に今更ながら歴史の重さと風土の豊かさを感じる。
  中国語と英語で簡単な挨拶があり招宴が始まった。舞台の照明が明るくなるわけでもなく、仰々しくなく、只みんなで食事をするという雰囲気だ。給仕をするウェイター、ウェイトレスも3、400人いて、テーブルごとに役割が分担されていた。料理が運ばれてくる時は、まるで波が押し寄せてくるようであった。
  訪中初日にお会いした廖さん(中国機床工具工業協会副総幹事長)が私たちのテーブルまで挨拶に来られた。満面に笑みを湛えて、工作機械展が開催されたことを本当に喜んでいらしゃるようだ。しかしながら、主催者としては会期終了まで気の抜けない一週間となるにちがいない。
  天井の電球を交換する時はどうやっているのか、給仕の人たちはアルバイトであろうか、厨房の大きさは、コックは何人くらいだろうかと、どうも私たち日本人は分析好きの人種のようだ。どういう方々がレセプションに来ていたのかは、分からなかったが人民大会堂の前には、ベンツ、BMW、クラウン、アウディなど高級車が主人の帰りを待っていた。
  ホテルへ戻り着替えもそこそこに、瀋陽行の夜行列車の乗るべく、北京駅へ向った。バスの運転手と再会を約束し、北京駅前の雑踏をスーツケースを転がしながら急ぎ足で歩いた。
  駅構内の人ごみには驚愕した。どこから集まってくるのか、ホームレスの連中がゴロゴロしてたむろしている。子供づれの家族と思しき2、3人が布団にくるまって寝ころんでいる。列車を待っている雰囲気ではない。とにかく駅構内はゴロゴロで足の踏場もない程だ。照明が暗すぎるのと、うす気味悪いので脇目もふらず縫って先へ進む。
  張さんと阮氏が先導してくれるが、22:07発瀋陽行という標識もない。エスカレータで二階へ昇る。売店を横目に見て、やっと瀋陽行53号の改札口までたどり着いた。
  一等寝台は4人部屋であった。杉山氏(CNK課長)中山氏(同次長)そして一瀬さんと同室になった。私は上の段のベッドを確保した。車内に中国音楽のBGMが流れている。
北京〜瀋陽の夜行列車内にて、左:一瀬氏、右:中山氏   瀋陽行ノンストップ特急。到着はあす早朝7時40分。距離738q、約9時間半の汽車の旅である。
  車内販売がやってきた。一瀬さんがミネラルウォーターを3本注文された。これでXOの水割りはOK。ところが勘定は16元。「むーっ、割り切れへんやないか」気がついて見渡した時には後の祭りであった。こんな時を割り切れない気持ちというのであろうか。
  車掌さんがパスポートを検閲にやってきた。徹夜勤務になるが女性である。毛沢東語録にある「天の半分を支える女性」という考えが浸透しているからだろう。あとで聞いた話だが、中国では外国人が鉄道の切符を購入する際はパスポートが必要だそうだ。蛇足ながら、中国では汽車のことは火車、自動車は汽車と表わす。

7.各種工具類など生産  翌朝定刻どおり、列車は瀋陽駅に到着した。大連機械設備進出口公司のチャオ氏と遼寧実業公司瀋陽事務所の史氏、友好服務員の南さんが出迎えてくださった。北京での受入れ先が中国機床工具工業協会と中国機床総公司であったように、瀋陽・大連では大連機械進出口公司である。いわば私たちの中国での身元引受人である。
  遼寧省の省都である瀋陽は人口580万人。古くから東北地方の政治的、経済的中心として重要な位置を占めてきた。炭鉱の撫順、鉄鉱の鞍山を控え、東北地方第一の重工業都市として発展している。特に航空産業は中国随一の技術水準を誇っている。
  瀋陽駅は朝のラッシュで混み合っていた。北京とは違いジロジロと視線を感じる。外国人が珍しいようだ。出札口では駅員が一般の中国人を手と言葉で遮って、私たちを通してくれた。
  後から来て割り込んだ形になった。外人は特別待遇だ。7時50分バスに乗った。まず、今夜泊まる鳳凰飯店で朝食。身じたくをしてから工場見学をすることになった。
  瀋陽での一番目の訪問先は、瀋陽機床附件廠である。自由市場の屋台が並ぶ一画に同廠はあった。
  応接室に通されて名刺交換の後、浅野団長の挨拶を倉田氏が通訳し、同廠の張経営廠長の挨拶と工場概要説明をチャオ氏という具合に会見は進んだ。お茶が運ばれ、テーブルには苺とバナナが盛ってあった。
  同廠は主にドリルチャック、マシニングツール、治具類を生産し、敷地は2万u、人員800人、生産量は年間30万ピースの規模である。四階建ての切削加工工場では各階に旋盤が7、8台、1人一工程で脇目もふらず仕事に打ち込んでいた。エレベータは35年前に出来たというから、建物はそれ以前になる。40年も前に数十トンの荷重に耐える建造物を建てる技術があったのには、驚く。商品の善し悪しは分からないが、全体に粗い感じを受け、組立工程でも、すんなり組立ができなく作業台に商品を叩きつけている光景も見られた。引き続き焼入工場、梱包、検査等を見学した。
瀋陽機床附件廠にて   作る商品が小さいせいか女性比率が高く、2人に1人が女性であった。入社後2年間は見習工、その後専門職につく。定年は55歳。基本賃金は月額280元である。来年には、NC機の導入を考えているとのことだが、果たして使いこなせる技術があるかは疑問である。
  11時30分、私たちは工場の門の前で記念撮影をして機床附件廠をあとにした。 チャオ氏は台湾製の携帯電話を持っていらしゃった。1800元したそうである。はじ めは個人で買い、仕事で使って能率がよいので、今では会社の数人が持っているそうである。その後会社で買い上げたかどうかは不明である。それにしてもチャオ氏のバイタリティとやる気には敬服してしまう。
 そういうこともあって工場の受入れが実にスムースであった。チャオ氏の配慮に「謝謝」である。ただ検査場を見て、出てきた時、先程の3階、4階の窓から職工の数人が私たちを見ていたし、一階で仕事をしていた人はトラックの運転手と話をしていた。
  ある程度出来上がったシナリオの上を歩いたという気持ちは禁じ得ない。

  北京からずーと中華料理ばかりのところへ、夜行での瀋陽入り。息を入れる暇なく工場見学。そばかラーメンで簡単にという浅野団長の要望もあったが、昼食はボリュームたっぷりの食事であった。そばのようなラーメンは出てきたけれど、すべての料理が運ばれてからといった調子。食事で体調がおかしくなってしまいそうであった。
  ガイドの南さんは、実によくしゃべってくれる。バスの中ではマイクを離さない。東西の道路を「路」といい南北を「大街」というとか、瀋陽市での自転車の台数は200万台、15年前に開放してから個人の店が多くなっている。とか遼寧省の歴史まで私たちに説明してくれる。本当にありがたいことだ。ホテルからの国際電話のかけ方まで教えてくださった。

 

8.建機、穿孔機械、特殊弁を生産   昼からは、まず瀋陽砿山機器廠を訪問した。劉副廠長と丁科長と名刺交換をし、説明を受けた。敷地45万u、人員8100人、生産は年間鋳鉄2400トン、鋳鋼2400トン、アルミ合金など15トン。鉱山関係の機械メーカーで中国第2位。選鉱機械、運輸機 械、建設機械、鉱山関係の水処理設備を生産している。
  ジャスミン茶のサービスをしてくださった女性は、足首までの黒いスパッツをはい ていた。ここ瀋陽でもスパッツが流行っている。
瀋陽砿山機器廠の遠心鋳造で作った真鍮鋳物   早速、工場を見せていただくことにした。鋳造や鍛造、機械加工の一貫生産で、鋳 鉄用の5トンキューポラが2基、鋳鋼用の4トンアーク電気炉、非鉄合金用として4 00sのコークス炉があった。ちょうどタイミングよく遠心鋳造機で真鍮合金の湯を 流しているところを見学することができた。
  350台の工作機械のうち53台がNC機。ドイツ、ユーゴスラビア製のNC機が あった。減速機の工場もあって、中国では一貫生産はあたり前で、効率面からみると 社会主義国のタテ割り社会の弊害かもしれない。頭では分業体制をとればよいとは思 っていても、なかなか出来ないのが中国の現状だと思う。
  古河や三井、三菱重工と合作、技術提携があって、自社輸出入の窓口がある。主に 東南アジア向けの輸出が多く建設機械、穿孔機械などを出荷しているそうだ。

  バスを降りて下街の民家を歩く。道は舗装されていない。でこぼこ道である。民家を抜け、道がやや平坦になったところに瀋陽第二閥門廠はあった。閥門はバルブの意である。
  工場に入ると外国人が珍しいのか仕事を止めて窓からのぞいている。旋盤の音から20年前のバルブ工場という感じがする。外の階段を昇り二階へ案内された。董廠長と名刺交換をして、工場の概略説明を受けた。董氏はゆっくりとした大きな声で口調でしゃべられた。バルブ屋の親父らしく頑固者のように見えた。生産品目は減圧弁、ゲートバルブ、グローブバルブ、水道用バルブ、石油プラント用バルブ等特殊弁が主流。
瀋陽第二閥門廠までの道、右側に公衆厠がある。   敷地は1万5千u、人員641名。生産台数10〜15万個、800トン。製品はほとんど国内市場向けで、一部機械部品で輸出している。鋳造部門はSCは外注である。図面を提供してもらっての委託加工を希望している。
  工場内には鋳鋼製の減圧弁本体の半製品があった。鋳物は取りしろが多く、バリなども処理せずに旋盤加工に回されていた。黒皮ではなくフランジの側面まで加工してあった。工場の建物の外にはストレーナーやゲートバルブの本体、ボンネット等の鋳物が置いてあった。検査場には門型の水圧検査機があり、シンプルな古い設備であった。材料分析機器や溶接設備も整っていた。
  汎用のバルブは生産しておらず全て受注生産である。SCのバルブであれば3ヵ月納期がほしいとのこと。今まで日本への輸出のチャンスはなかったので、よろしくお願いし、ぜひ再会できますことを希望しますと董廠長は強く言葉を結ばれ、私たちは第二閥門廠に別れを告げた。
  年間800トンとのことだが一個平均に換算すると一個が8sになる。月当たりの生産個数は1万個前後となり、汎用品を生産しているなら納得できるが、見た限りの設備では無理だと思われる。年間の生産量は10〜15万個ではなく、1万〜1万5千個であれば、バルブの大きさが50〜80sになり、ほぼ辻褄が合う。量産の小物工場が他にあるならそれでよいが、少々疑問が残る数字であった。
  瀋陽の街も相も変わらず自転車が多く、北京と比べ道が狭いのでよけいに混雑しているように思う。ここ瀋陽は朝鮮半島が近く、朝鮮人がたくさん住んでいるとのこと。南さんの話では街の看板に「天肉」とあるのは犬の肉を食べさせてくれるところで、主に朝鮮の人たちがやっている。またロシアも近いので、最近のロシアの政情不安定と不況で、ロシアの女性が中国人相手に商売をやりに来ているとか。南さんのガイドは延々と続く。時々頭からスッポリと網をかぶって自転車に乗っている女性を見かける。ご婦人の礼装用チュールの頭全体版といったところだが、それは花粉が浮遊しているので予防するためとか、実際名所旧跡といったところは行けなかったが、瀋陽にも故宮があって、清の初代皇帝ヌルハチが造営した。面積は北京の故宮の10分の1だそうだが、宮殿としてはこぢんまりとまとまっているそうだ。

9.雨あがりの瀋陽の街、大連に見る侵略の歴史
  鳳凰飯店のホテルの水まわり設備はよくなかった。バスタブの栓は止まりにくいし、シャワーホースは根元から外れるし、トイレは流れないわで、一瀬さんと二人で部屋を替えるか修理するか頼んだが配管工がチラッと見にきただけで、あとどうするのか何も連絡して来ない。食事の集合時刻になったのでフロアー服務員にその旨伝えて、ロビーへ降りて行った。   ホテルよりすぐの八角楼というレストランで食事をして帰って来たが、何のメッセージもない。たまりかねて倉田氏に掛け合ってもらうことにした。すぐに倉田氏と舟橋氏が来てくださって、万事OK、部屋を替えてもらうことになった。これで着替えをして、ゆっくりとくつろげる。因みに衛生陶器メーカーは、アメリカンスタンダード社であった。

  7日の朝は雨が降っていた。5時半というのにもう自転車に乗って出勤する女性がいる。赤色のポンチョを着ているので4階の部屋の窓からも分かる。ポットでお湯を沸かす。きょうは雨が降っているからいいが、晴れの天気続くと乾燥して咽喉がカラカラになって、何か風邪をひく前のようにおかしい。これが大陸性気候なのかな。
  一瀬さんもお目覚めの様子、コーヒーを2杯分入れた。チャオ氏が日本語で書いてくださった予定表を見る。きょうは列車で大連へ。2工場を見学して、大連機械設備進出口の方々と食事。夜8時ごろホテル入。きょうもハードスケジュールだ。
瀋陽の朝。ラッシュアワー。   バイキング式の朝食には、杉山氏の顔があった。ゆうべは食事をパスして、部屋で休養していたそうだ。「ほんまにそうですか」と冷やかすと笑顔の杉山氏に戻っていらっしゃった。キャシャーには部屋料金が明示してあった。デラックス・1050元、キッチン付・700元、スイート・620元、スタンダード・330元、シングル・255元。ツインが6、600円とは、私たち日本人の感覚では安くてまぁまぁと思うが、中国ではひと月分の給料である。中国人が泊まる時は、外人料金ではなく別料金らしい。私はミネラルウォーターを売店で買ってバスに乗った。
  雨あがりの瀋陽の街は空気がきれいで爽やかであった。かすみがなく遠くのほうがはっきりと見えた。瀋陽にはちょうど丸1日居たことになる。もう少しゆっくりしたい街である。ガイドの南さんがたった1日のお付き合いでしたが、皆さんお元気で、また中国へ瀋陽へお越しください。と締めくくった。

  8時30分、大連行特急、「遼東半島号」は出発した。大連まで397q、大連着13時30分。5時間の満州鉄道の旅である。この地方は19世紀末から20世紀にかけ、まず帝政ロシアの、続いて日本の侵略を受けた。日露戦争以後、遼東半島と南半分の鉄道の権益を手中に収めた日本は、これを足がかりに勢力拡大の機会をうかがう。そして1931年、満州事変によって一挙に東北地方に進出し「満州国」として傀儡政権を立てたのである。
  19、20世紀の中国の歴史は日本や西洋列強に対し敗北、傍観の連続であった。1840年のアヘン戦争では西洋列強に服従せざる得なかったし、1894年の日清戦争では、誰しもが日本が敗けると見られていたが、日本は短期間で勝利をおさめた。西洋列強は日本が勝ったことの驚きより、われ先にと中国を切り刻み出したのである。植民地として獲得するためであった。
  中国はここ100年以上の間、言葉では言い表わせない試練の中を模索し、くぐり 抜けて来たことか。この体験を通し西洋人のやり方はもちろんのこと、この地に満州国を建てた日本人の弱点をも、知り抜いているといっても過言ではないだろう。

10.FC鋳物は良品質も人海戦術?  瀋陽から大連に向う列車は、按山製鉄所にさしかかった。八幡製鉄の数倍の大きさに見える。立山駅が過ぎ、按山駅までずーと続いていた。チャオ氏は40万もの人が働いていると説明してくださった。この遼東半島号には食堂車が連結されていない。車内販売のみであるが、お弁当は注文してから作るのには少々ビックリした。軟座車両には中国人も乗っていて、囲碁を打つもの、ポケットファミコンをするもの、スイカを家族で食べているものと様々であった。
満州鉄道の大連駅、JR上野駅と姉妹駅   大連には定刻より遅れて13時55分に着いた。大連機械設備進出口公司の総副経 理の朱氏とチャオ氏と同僚の李氏がホームで出迎えてくださった。早速、ワゴン車2台に分乗して、大連最初の訪問地大連冷凍機廠に向った。大連市認定の第一級工場。工場内は樹木も多く、整理整頓は行き届いていた。部屋にも入らず、すぐに工場を見学させてもらった。
  この工場では写真撮影は遠慮してくれとのこと、鋳造部門のみ拝見した。フランジ鋳型が主力で生型、乾燥型がある。デンマーク・DISA社の自動造形機は導入中で十分には稼働していない。FC鋳物は出来ばえがよく、彦根の舶用弁メーカーのアングル弁の本体が出荷待ちの状態であった。
  副経理の範氏は説明によると鋳鉄部門の人数は350名、技術者20名(二交代制)生産量はFC4000トン、FCD2000トンである。対日輸出は86年からやっ ている。日立製作所や島津製作所向けがある。価格はFCで一トン当たりUS700ドル、FCDで1100ドル。
  この工場の主力生産品目は、バルブ継手類、冷凍機用コンプレッサーケース等であ った。鋳物専門工場ではないが鋳造の原材料は最高級のもの本渓製鉄所のものを使っ ている。あとハイテク技術力と生産管理力があれば、日本企業にとって強い味方にな るだろうし、非常にこわい相手になると思う。本社の建物の前で記念撮影をして次の工場に向った。
  大連市は人口485万人。遼東半島の南端に位置し、大連港は、中国を代表する対外貿易港の一つで、貨物の呑吐量は全国第2位。鉱工業は非常に発展しており、機械、化学、紡績の産業が主体で日本の企業進出も盛んである。企業数は2100社。成田と福岡から直行便がある。

  大連の街は、北京や瀋陽に比べて自転車が少ない。街並がアップダウンが多いからだろう。車は大連の都心から北へ進む。丘陵を越え、畑も見える。そんな大連市郊外に大連鍛造廠はあった。
  まず何はともあれ工場を見せていただいた。切削工場はすでに業務は終了していた。時刻は4時前。着替えを済まし、あわてて送迎バスに乗り込む社員もいた。静かな現場には、旋盤、フライス盤が閑散と並んでいる。バルブの本体の金型があった。4分、1吋、2吋、マークには覚えがない。
  600トンプレスの鍛造工場ではバルブ本体の鍛造品、材質A105が山になって置いてあった。この鍛造現場を見る限りでは七人の作業員が張りついているのには、さすが中国という印象であった。買う側に立てば価格と品質、人としての信頼があれば商売は成立する。日本は人件費比率があまりにも高すぎるので人がウヨウヨいるとどうも気になってしまう。
  工場を見てから応接室に入った。王副廠長と名刺交換のあと一人一人団長より紹介があった。敷地9万u、人員600人、生産量は年間1万トン。生産品目は建機の部品、キャタピラ、バルブの本体、ボンネットなど。合弁、合資を希望しているとのこと、経営面では厳しく捉えているようだ。作業の効率アップを図り、ステンレス材も生産品目に加えれば将来性のあるすばらしい工場になるのでは、という鍛造廠の感想であった。

11.大連機床廠を訪問   鍛造廠からの帰りはウトウトと眠ってしまっていた。気が付くと渤海敦煌酒楼というレストランの前であった。夕食は大連機械設備進出口公司の方々が私たちのために一席設けてくださった。初総経理(社長)と傳さんと名刺交換をして、工場を案内してくださった朱氏、李氏そしてチャオ氏の5人の皆さんと私たち15人の宴会は始まった。
  港街らしく海鮮風で久しぶりのあっさりした料理に舌つづみを打った。茅台酒もあ って私は勧められるまま「乾杯」「乾杯」とグラスを飲み干した。もう一つのテーブルの方々と飲み交わし写真にも収めた。
  カラオケが用意されていた。チャオ氏がまず一曲目を唄われ、旅の恥は掻き捨てとばかり、興に入っていた私は「乾杯」を披露した。浅野団長、初社長もカラオケを唄われ、ダンスはするわ、ウェイトレスとデュエットをするわで宴会は盛り上がった。
  今夜泊まるホテル富麗華大酒店へ着いたときは、フラフラであった。茅台酒を一本 近く空けてしまったのだから無理もない。食事のあとチャオ氏に大連港、旧満鉄本社などを案内していただく予定だったのに部屋で横になってしまうともうだめである。
  土曜日の朝五時半に目を覚ました。むーっ、素っ裸で寝ている。しかし気分は爽やかである。ゆうべの記憶をたどってみる。11階の廊下、部屋に入って、国際電話をかけて・・チャオ氏が部屋にいて・・一瀬さんが先にバスに入って・・・・ポットでお湯を沸かしてみそ汁と非常食用の白飯をあたためて食べた。一瀬さんが「ゆうべはびっくりしたで」と一言。状況を聞きながら記憶を探る。
  ホテルの向い側は建設前のならし工事中でトラクターやシャベルカーが無造作に放置してある。朝早くからどこからともなく、人が集まってきている。11階から見ると、まるでゴキブリのように人が立っている。
  富麗華ホテルの朝食は、生野菜もありパンも豊富にあって、美味しくいただいた。きょうは、大連市内の四工場を見学後、空路北京へ向う予定である。8時半ロビー集合。浅野団長をはじめ昨夜の醜態を詫びてまわった。さて、工場見学最終日、きょうも忙しくなりそうだ。
  まず、大連機床廠を訪問した。この工場はトランスファーマシンを含む専用機、普通旋盤、NC旋盤、自動盤等を生産している。特にトランスファーマシンは中国市場の50%以上を占める。敷地36万u、5つの分工場がある。人員7000名。技術員942名。生産量は普通旋盤を中心に年間2千〜2千5百台を生産。専用機は年間300台。鋳造から鍛造、油圧機器、溶接、熱処理に至るまでの一貫生産をしている。
  応対していただいた同廠進出口公司の単副総経理は、輸出実績や同廠のセールスポイントを熱心に説かれる。CMIT’93にも出展していた。西ドイツ製の三次元測定器など各測定機器も備えているが、常時使用はされていない印象を受ける。
  チャオ氏は30前の好青年だ。家族3人、子供は当然ひとりである。これからの中国を担う企業人として活躍するだろうと思う。6月に来日する予定があるそうだ。前途有望で頼もしい人材だ。
  大連のスケジュールが詰んでいるので、少しゆっくり目になりませんか。と言った時、チャオ氏曰く「あなたたちは一体何をしに来られたのですか。視察でしょ」と一本取られてしまった。なるほど、そうではあるが、物を作る術ばかりたくさん見て回って、数をこなせばいいというものでもない。合作合弁をやるなら、取り巻く環境、交通アクセス、労働市場も重要な要素となると思う。

 

12.耐蝕ポンプ450種を生産   大連は街路樹があり路面電車も走っていて情趣のある街である。港があるので開放的で陽気な雰囲気である。所々日本風の家屋やロシア風の建物を見ることができる。ファッションも艶やかな色つかいでミニスカートの女性も多い。
  大連鋳造廠は鋳鉄とマレーブル鋳物を生産している活気ある工場であった。副廠長の薛氏と副科長の蘇氏それに女性の秘書が応対してくださった。
  生産品目はFCはフランジ、軸受座、FCMBはほとんどが碍子キャップである。単重0.5〜80s。生産能力は年1万2千トン。人員1500名。
  見慣れた造形ラインもあった。ちょうどバルブ素材の大きさに合う型ワクだ。その設備に東洋バルヴの青銅弁がついているので日本の中古品の可能性が高い。鋳機専門の荻野氏に聞くと「実はこの装置は桑名の某工場へ納めたものです」と。芯取りの現場は休憩時間に入ったところだった。男女が一緒になってお茶を飲んだりしゃべったり、陽気で声をかけたら笑顔であいさつしてくれる。バリ取り現場の横にFCのネジフランジが置いてあった。マークをみるとASK、ユビワであった。
  私たちが日頃、目にする製品にふれると親しみを感じるのは、人情だろうか。帰り際、娘道成寺の日本人形が飾ってあるのに気がついた。誰ぞが持ってきたものか、持ち帰ったものか。

  昼の時間を利用して大連機械設備進出口公司のオフィスを訪ね、二階のショールームを見せてもらった。「歓迎」という文字。50坪ぐらいの部屋に同公司の取扱商品が並べてあり、真鍮、高圧のバルブや鋳物フランジ、溶接管継手、量水器まで置いてあった。
  その後同公司の食堂でランチはよばれた。おかずは別として、今までのご飯より最もおいしい米飯であった。日本より中国の米のほうがうまいという実感であった。
  きょうは土曜日で社員のダンスパーティがあるとのこと。場所は先程のショールームである。パーティーというよりダンス講習会のほうが適切である。愉しそうに社交ダンスをしている中国が目の前のあった。
  昼食後、同公司前で記念撮影をして、次の工場大連耐酸石水廠へと向った。
  大連耐酸石水廠は鋳造から機械加工、組立まで自社で行なうポンプの一貫生産工場であった。敷地は14万u、人員3300名、3トンの電気炉2基、150sの中周波電気炉三基、サンプル用電気炉2基(8s・12s)。生産品目は耐蝕各種ポンプを19シリーズ、450種類を製造する。経営副廠長の王氏より概略説明があった。既に30ヵ国以上の国に輸出実績があり、DIN規格、ISO規格でも製造している。
  工場内は整理が行き届いていて職工の皆さんは作業服を着て機敏に働いている。鋳造や機械加工も無難な感じがする。小口径から大口径まで検査が出来る検査設備は立 派である。化学成分分析もプラズマ試験機で行ない瞬時にチェックを実施している。その試験室にエプソンのプリンタがあったのは、なぜか。ココム規制を潜り抜けてきたのか。
  テフロンパッキンを汎用旋盤で加工していたのには、少々驚いた。王氏は日本の企業と良きパートナーとなって手を取合っていきたいと言葉を結ばれた。他に輸出部の李氏、副総工程師の呈氏が案内してくださった。


13.郷鎮企業を訪問   車は大連空港の方向へ進んでいく。次で視察すべき工場は、すべて終わる。北京、瀋陽、大連と今までに見せて頂いた工場は国営であった。これから訪問する工場は郷鎮企業である。
  郷鎮企業というのは、中国の農村地域において、郷(村)や鎮(町)によって興さ れた小規模な農村企業のことをいう。その営む業種は工業、建設業、交通運輸業、商業サービス業、農業と多岐にわたるが、工業が最も多いといわれる。
  郷鎮企業の総生産額は、83年・739億6000万元、84年・1500億元、87年・約4500億元、90年・9500億元(全総生産額の4分の1)に達している。84年の経済日報によると郷鎮企業がこのように急速に発展し繁栄するようになったのは、生産責任制の導入により「商品生産が発展し、農村経済が活性化された結果である」と指摘している。農村に滞留する膨大な余剰労働力をどのようにして非農業部門に吸収するかということは中国の近代化にとって当面の重要な課題であり、その課題の担い手が郷鎮企業である。
  空港を過ぎ、工事中の道路を通り、踏切りを越えて、しばらく走った所に郭家学校鋳造廠はあった。国営とは全く雰囲気が異なり田舎の鋳物屋さんというのがピッタリとくる。建屋の配列も場当たり的。生産品目はダクタイル鋳鉄の配管継手類、フランジ、マンホールの蓋など、造型面積は1800u、人員187名、生産量1600トン(うち輸出1500トン)。設備は3トンキューポラ3基。造型機10台。汎用旋盤。
  若い作業員が多く、外人が珍しいので手を止めて見ている。作業員の服装もまばら、露天で黒色の塗装をしていた。鋳造工場では注湯待ちの型が場所狭しと並んでいた。地面にそのまま型ワクなしで造型したものがあった。明日、総出で注湯作業をするのであろう。
  機械加工もしていた。フランジも生産品目に入っているが多軸ボール盤はない。一穴ずつ明けている。作業員たちは、便利な機械があることを知っているのだろうか。先進企業では自動機にかければ出来上がるという、資金と技術を結集しているが、まさに労働集約型路線を邁進している。
  輸出先は、アメリカ、シンガポール、韓国、日本などで、技術廠長の張氏は大連第二造船廠を定年退職してこの工場で技術指導をしている。社名に郭家学校とついているのは、同学校の教材や備品購入を目的として1984年に設立。企業所得税は国には払わず、学校と村に納めている。給与は月350〜460元。
  国営の企業とちがいスマートさは全くなかったが、自由さと活気と「やったるで」という気迫を感じたし、省の偉いさんの顔色を見てという縦割り社会が崩れている印象を受けた。中国経済にとって郷鎮企業の役割は大きい。激励と称賛の拍手を送って郭家学校鋳造廠に別れと告げた。
  私たちは空港へと急いだ。どうもワゴン車2台で分かれての移動は窮屈で、全員の意志の疎通がないので統一性に欠けた嫌いがあった。
  17時ちょうど大連空港に着いた。たいへんお世話になった機械設備進出口公司の朱氏、李氏それとチャオ氏と「再見」の握手をして私たちは出発ゲートをくぐった。

  中国北方航空のジャンボジェット機は一路北京へと飛び立った。
全視察を終えて、サッパリした気分と、疲労感と充実感それと虚脱感を感じる。果たして中国は何を求め、どうなっていくのだろうか。
  国営企業と郷鎮企業は、日本における産業の二重構造のような存在でしか、融合できないのではないかと思う。今すぐに中国の国営企業がどんどん先端技術を取り入れ、労働節約的な路線を進むならば、中国の膨大な労働力を吸収することができず、失業問題をかかえこんでしまうことになる。
  経済自由化が急激に進みすぎると失業問題が出てくることになる。そこで労働節約型産業と集約型産業とを同時に発展させる中国独自の路線を歩むしかないだろう。時代の流れで日本は労働集約型から節約型へと移行してきた。集約型産業は労務費の安い地域や国に移動するのが常である。
  今、中国は国営企業を節約型産業に脱皮させるため、とって替わる集約型産業の担い手として、この郷鎮企業の存在が必要なのである。因みに、政府の計画によれば、2000年までに、2億の農村労働力を郷鎮企業に配置し、総生産額は1億5千万元に達することが予定されている。

  北京の京倫飯店に戻ってきてホッと息をついた。瀋陽、大連のホテルでは、それぞれ一泊、落ち着く暇もなく次の日の移動であった。張さん、阮氏も元気な姿を見せてくださったし、バスの運転手も笑顔で迎えてくれた。
  早速、二階のレストランで特別メニューのごちそうを食べた。それはラーメンであった。北京の一流ホテルでラーメンとは実に愉快である。麺もうまし、鶏ガラのだしでアッサリしている。好吃、真好吃。

14.ありのままの中国   次の日は日曜日、終日自由行動である。私は以前万里の長城と明の十三陵を見ているので、商経の舟橋氏とふたりでCIMTの展示会を再度見学し、北京散策をすることにした。
  九時すぎ、タクシーに乗った。運転手さんには中国国際展覧中心を地図で示した。 慣れていない運転手さんで途中道に迷って二、三度、道を尋ねていた。
  乗ったのはシャレードのタクシーで基本料金は11元、あと何mかごとに1.1元ずつメーターがあがる。無事着いたが、30元払ってもお釣りをくれないので、メーターを指差して「不一致」というと1元硬貨2枚を渡してくれた。
  2回目の国際工作機械展は、マイペースで余裕を持って見学できた。これと言って収穫はなかったが、日本館では、中国人と日本人との識別が容易にできた。日本から応援に来ている人と現地採用の中国人とは、同じような東洋の顔をしていても、全然動きや顔つきが異なるのである。私たち日本人はどことなくボーとしていて柔和な感じで、一方中国人はキリッとひきしまっていてる感じを受ける。日本語が出来て、経済大国日本の外資系の会社に勤めているのだから、エリ−トであることは確かである。
  北京に駐在された倉田氏によれば、今回の訪中のように招待された場合、間に入った人の顔をたてて、中国人の方は、私たち初対面でも盛大に歓待し、ごちそうまでしてくれる。第一印象はなんと懐の深い国民だなぁと思ってしまう。
  ところが実際に中国人の中に入って生活をしてみると、正反対の印象を受けるという。約束は守らないし、お金には細かい。自分の過失であっても、言い訳ばかりで決して謝ろうとはしない。期待感と信頼感を裏切られてしまう。一年ぐらい経つと、なぜ中国人がそんな処世術を持ったのかを、おぼろげながら分かってくると「せかせかしても仕方がない」と思うようになり、自分なりに納得してしまうという。中国人をひとことで言えば利己主義で、自分のまわりの人間関係だけを重視する。ところが日本人は、どちらかといえば会社の利益を優先させて行動してしまうんですね。
  今更ながら、利己主義的な中国人と社会主義国の縦割り社会という大きな壁を感じる。日中国交が正常化したのは1972年9月のこと。既に21年の歳月が流れた。手さぐりであった70年代。親善、友好といわれた80年代。90年代も、もうすぐ半ば、友好の時代から良きパートナーへの脱却を真剣になって考え、日本的感覚に固執せず、そのままの中国を受け入れて、誠意をもって行動に移す時かもしれない。
展示会もほどほどに私たちは、景山公園へ向った。
  故宮の北側にある景山公園は、家族連れ、海外の観光客、カップルといろんな人でいっぱいであった。入場券売場では並んでいないので、厚かましく前へ行かないと買えない程である。
  高さ92mの小高い丘にある万春亭から見る展望は実に素晴らしい。故宮の全貌が見渡せ、黄色の瑠璃瓦が幾重にも折り重なって、波を打っている。
  公園の裏手には遊園地があった。三人の親子連れが弁当をひろげて食べている、ブランコや動物の格好をした電気自動車もあった。子供たちの喜び叫ぶ声、笑顔は万国共通だ。石のベンチに座っていると、ここは北京だということさえ忘れてしまう。
  お腹がすいたので、何か食べようということになった。ケンタッキーもマクドも北京に出来ているが、ここまで来てそれはない。前門大街の有名な焼売屋で昼食を食べることにした。
  都一處というその店は満員であった。外人だと分かって、食べ終えたお客を追い立てて席を作ってくれた。前菜と焼売そしてビールを頼んだ。次々と客が入れ替わる。若いカップルが多い。焼売の味はもうひとつだったが、冷えた生ビールはのどを潤した。
  食事のあとは、大柵欄街から瑠璃廠までゆっくり歩いて北京に浸った。洋服屋さんに入ったり、電気屋さん、薬屋、漬物屋、お茶屋、百貨店、自転車屋、骨董屋、足が向くまま気の向くまま店に入った。混んでいる店とそうでない店は、歴然と分かった。値段が安くて、品物は納得できる。しかも、まだ値切りに応じるお店、そんな店には、満員御礼の正札ではなく「八折」「廉・・」の漢字が目についた。その雰囲気にいると、中国人は金銭感覚に敏感で、売手も買手も商売人だと思う。定価で買う日本人はなんと人がいいのだろうと感じる。
  人通りが少なくなって街並が変ったころ、家の軒先で麻雀をしていた。家族麻雀であった。一曲だけ親しく観戦させてもらった。

15.日中関係は何処へ   思ったよりこちらは暑かった。緯度では秋田県に位置するので、長袖のものばかり持ってきたが、あにはからんや、まるで夏がやってきたようだ。蒸し暑くないのでまだいいが、空気は乾燥していて、咽喉がおかしくなる。しかし、北京の人には、半袖で真夏の格好をしている人もいるが、上着を着ていて、見ているほうが暑く感じてしまう人もいる。
  最後の晩餐は、北海公園の中にある防膳飯荘という由緒ある店で、ここも満員のお店であった。
  この度の訪中で、工場を12ヵ所見せて頂いたことより、食事をした所々がすべて満員であったことが、何よりも良かった。それも外人客で埋まるのではなく、中国人も利用している。倉田氏と東海日中貿易センター北京事務所の張さんのお陰にほかならない。

   琵琶の音色を 聴くなれど
     今宵北京も 暮れていく
   あすは愛しき人の待つ
     港ぞ 吾を迎えなむ

  雅びかな宮廷料理と奏でられる爪弾きの音、すっかり酔い痴れて、いい気分になっていた。
  ホテルに帰ってすぐ、母にカーネーション・テレフォンをした。元気な母の声、無事であることに感謝して受話器を置いた。
  次の日、午前中は北京友誼商店へ買物、帰り支度のパッキングをして首都国際空港へ向った。友誼商店では、以前は外国人専用であったが、今では中国人も利用できる。人民紙幣でも使用OKだ。タバコやお酒は兌換紙幣で買うより一割程高くなる。だから中国人の一部の人は、兌換紙幣を欲しがる。安く買えるからだ。店員は7、8年前と比べると愛想がよかった。ショーウィンドーで見ていると「何か」という風に寄ってくるし、笑顔で応対してくれる。以前のように「売ってあげる」という態度はなかった。まして店員同志ペチャクチャ話はしていなかった。

  中国の人口はおよそ12億である。地球上の4人に1人が中国人である。まさに人の数が中国のパワーそのものであり、世界の脅威となるにちがいない。今や旧ソ連が崩壊し、ロシアでは政情不安定、国民は混乱の真っ只中である。それを教訓にして中国は一挙に自由化路線を歩まないだろう。中国は社会主義のよいところを残しつつ資本主義的市場経済を取り入れようとしている。世界にも例を見ない中国独自の社会主義的資本主義路線である
  中国の指導者はこの三月、江沢民総書記、首席が誕生して、憲法も改正した。社会主義市場経済を実行して、企業の経営権を国家から切り離し、独自の経済活動を行なえるようにした。中身は、資本主義的発想といえる。中国は今や、活気に満ち溢れている。しかしながら、自由化民主化のテンポが速すぎると、また89年の天安門事件が起きるかもしれない。中国指導者による、12億人の中国人民の手綱さばき如何である。
  北京空港の出発ゲート前では見送り客や時間待ちの人たちでいっぱいであった。出国を済まして、待合室でクラッカーを食べ、昼食をとった。免税店をウロウロしたりして時間を潰した。
  15時25分搭乗開始、帰りは、横一列8人の席に4人掛けで機内はすいていた。JL788便は定刻より少し遅れて離陸した。北京空港の回りは農村地帯である。人工的に作られた真っすぐな水路。黄河のデルタ地帯、アジア大陸の土壌は茶色。黄砂か、霞みのせいか誇りっぽい。ジャンボ機はグングン上昇していく。何の変哲もない景色の中、公団住宅のような建物がどんどん小さくなり、こげ茶色の短冊を並べたようだ。決して緑あふれる大地ではない。
  中国と日本の結び付きは古い。仏教も中国から伝わって来た。中国文化を学ぶためかつては幾度となく使節を送った日本であったが、昨年、歴史上はじめて日本の天皇が中国の地を踏んだ。御訪中の目的はいったい何であったのだろうか。
  「今、なにゆえに中国なのか」という仮説を抱き、北京、瀋陽、大連を訪れた。私たち日本に残された市場は、もう中国しか残っていないのだろうか。中国は広い国土と12億の人を武器にして全世界の生産工場となっていくのだろうか。日本はアメリカと同様、空洞化が起こり、廃墟となってしまうのだろうか。21世紀にはボーダレス時代が来るとも言われる。穀物自給率が30%、供給熱量自給率は47%の日本は、いったいどうすればいいのだろうか。
  まさにこの中国経済視察は、私にさまざまな思いを気づかせてくれた。(完)

(あとがき)
  一緒に同行された団員の皆様に心から敬意を表し感謝いたします。また、商工経済  新聞社のスタッフの方々、ご愛読くださいました皆様に、心から御礼申しあげます。